2021年3月3日水曜日

「王薌齋の学術的価値」(韓競辰拳学論文)

 王薌齋の学術的価値

编者:この論文の筆者韓競(1956 - )は韓氏意拳の創始者であり、本籍は河北、上海の生まれで、長く新疆で暮らした。父の韓星橋(韓樵)は意拳宗師王薌齋先生の入室弟子である。韓競辰先生の学術探求は拳術そのものに限定されず、伝統武術の根幹は伝統文化にあると考えている。近年,韓先生は伝統武術の精髄が失われたことを深く感じるに至り、そのため辛苦をいとわず、韓氏意拳の普及のために積極的に力を尽くしている。その教学は、一つの形式にこだわらず、現実生活の言葉をうまく用いて、深奥な道理を説いている。

これは卓越した学、卓越した芸術性、卓越した技の三つを併せて探求する学である。

——父韓樵の言葉

我々は専門形成的世界観または教化形成的世界観と自然的世界観を必ず区別しておかなければならない。

——マルティン・ハイデガー

王薌齋の学術的価値をいかにして評価するか、それはむやみに持ち上げたり、神がかり的な逸話を持ち出したりして、その学術的価値がどこにあるかを証明できるわけではない。そうではなくて、王薌齋が学術の上でいったいどんな新しい独自の見解や学術的観点を提起したかが問われるところである。

まず、王薌齋の学術的価値の体現は、ある特定の拳を一般的な意味で改良(最適化)したことではなく、全く異なった新しい拳を生み出し、提起したことにある。

王薌齋の学術的価値は、深遠な人類原始運動、あるいは自然良能運動の再現可能性と実現可能性を探求したことにある。また、究極的な「知行合一」を探求する精神、さらには真理を堅持し、全く妥協しない人格と学術レベルにある。

王薌齋の学術的価値は自然本能運動、あるいは自然良能運動の正確な方向性、「人の良能の発揮」を身をもって実証したことにある。同時に、実際に動いてみたときに、いかにして真の自然運動と偽の自然運動を見分けるかの判定基準「一用力便是错,一具体便是错(力を用いれば過ち、具体なれば過ち)」を要訣として提起したことにある。

学術上の新解釈

良能説

王薌齋は一派を立てる意義を明確にしている:人の良能を発揮させる。

「良能」とは何か、正確に言えば自然本来の条件、自然本来の運動機構が運行中に産生する運動現象、いわゆる「良能運動」と解するべきである。具体的には、我々の行為が、自然本来の条件下での良能運動であるか、それとも現在の現実条件下での現行の「技能運動」なのかはどのように判定するのか?

技能運動のモデルは現在、現実(客観存在)的条件をもって運動の基礎条件とし、目的性を含め、最適化を加えて技能行為の規範を制定し、一般化、分化および自動化の強化訓練プロセスを経て自動化された応答を作り出すモデルである。

これはまた現在、現実において広く通用する訓練モデルであり、その理論のよりどころは(ロシアの)パブロフの条件反射説である。

強化訓練を受けた結果として必然的に、笛の音を聞けば小便し、銅鑼の音を聞けば食事をし、Aを見たらBを用い、Bを見たらCを用い、このように訓練すれば山羊をワイヤーの上を歩かせることもできる。この種の行動表現は、行動に深い機械化(凝固)の痕跡があることを否定できない。 これは、石に字を刻み込み、それを繰り返して深くするようなもので、それが技能訓練の典型的な特徴である。これは事実を述べているだけで、その現実上の意味を否定しているわけではない。

技能運動訓練モデルはまた、絶対的に現実社会の主流が広く認めるところであり、法則に基づいて操作される運動訓練体系であり、このモデルが備えている条件は現実的、客観的に存在する条件であり、すぐに効果が現れ、現実的価値観が求めるところの実用性と完全に符合している。したがってごく当然のこととして、社会全体が広く応用し、実行して効果があり、疑いの余地もなく広く通用する訓練モデルになっているが、「自然良能運動訓練体系」とは正反対で、無関係のものである。

良能運動

「学ばずして出来ることが良能」、「学ばずして出来るとはどういうことか」、西洋ではこれを「先天的」と呼び、中国ではこれを「生まれつき」と呼ぶ。自然本有が根元であり、自然の特性である。老子《道德经》に曰く:知恵出でて大偽あり。人類が賢くなり知恵を働かせ始めたとき、大偽(不自然)なものが生み出された。

良能運動の基礎条件は純粋自然条件と純粋自然運動メカニズム(感応メカニズム)によって自然に生まれる「感ずれば皆応ずる」ような自然感応運動モデルである。 「事物は自然選択され、事物はその用を尽くす」、「馬に代わって走ることなかれ、鳥に代わって飛ぶことなかれ」、条件が生存方式を決定する。

技能運動と自然良能運動の根本的な分岐点、しかも唯一の分岐点は、運動条件、運動メカニズムの属性にある。それは自然本有(先天的または生まれつき)であるか否かである。したがって、当然のことだが、技能運動と良能運動を区別する上で純粋性を最も考慮しなければならない。純粋性が重要な考察のよりどころとなるのは、世界の永遠の究極原理:条件と現象、である。

1、特定の条件があれば、特定の現象が発生。

2、特定の現象があれば、必然的に特定の条件が含まれる。

3、条件と現象の間の因果関係。

不自然な(先天と後天の混在)条件の下で、純粋な自然現象、あるいは自然な行為が発生するだろうか?答えは間違いなく「不可能だ」である。純粋な自然条件を備えているときはじめて、純粋な自然現象または自然行為が発生する。これが唯一の正しい答えである。

「あなたは自然ですか?」と尋ねると、ほとんどの人は、「私は自然です!何かやりたいと思えば、ほら、この通りできますよ、私が不自然なはずはないでしょう」と答える。そこで、「あなたは原始の(純粋な)自然人ですか?」と尋ねると、ほとんどの人は、「いやもうとっくにそうではありません」と答えるであろう。

したがって、前者の技能運動と後者の自然良能運動の違いは、運動の条件と運動のメカニズムが純粋自然か、あるいは不自然(混在)であるかにあることが明らかになり、純粋性こそが重要な判断基準、さらには唯一の判断基準であり、これを俗に「不二の法門」という、自然の唯一性である。

このことはまた、我々の研究全てに関係する自然を問うときに、研究の属性が自然の重要な基準であるか否かを分別し、指定する助けになることを示している。つまり、自然本有は「良能運動」の自然属性の本質の目印となる。「良能」の特性は「学ばずして出来る」という天賦の本質であり、「良能」のいわゆる「学ばずして出来る」は、まさしく純粋な、自然本有的自然属性の目印である。

韓氏意拳は、純粋性こそが王薌齋さらには我が父韓樵(星橋)、叔父韓星垣が生涯信奉し、世俗観念と全く妥協せずに(自然の角度から見て)、堅く守った意拳の「心法秘訣」であると提起している。

面白いことに、彼らは世俗の「勁を用いて力を用いず」という概念に感銘して「勁」の殿堂に入った「勁」の体現者、実践者、保持者である。彼らは「勁」の本質、すなわち「自然良能」運動を実証したのだ。ただ残念ながら、世俗の「勁」の概念は不正確で、世間には極端な誤解があり、誤解が主流になっているので、学理体系の構築や運動行為の指導の細部に大きな逸脱と遺漏が発生し、世俗の観念化した「勁」は最終的に完成されることはなく、決定的な断絶が発生した。

 科学的方法というのは本来技術ではない、それがいったん技術になってしまうと、科学に固有の本質とは乖離してしまう。

―― マルティン・ハイデガー

王薌齋先生は、実際に動くときに、どのように良能運動を体現するかの判定基準を説明するために、さらに一歩進んで「力を用いれば誤り、具体なれば誤り」という運動判定基準を提起した。

「力を用いれば誤り」は「勁を用い力を用いず」という術理の観点に由来する。「力を用いれば過ち」は「勁を用いる運動」と「力を用いる運動」という二者の間により精確で具体的な境界線を描く。

「勁」の運動と「力」の運動の区分において、社会には常に重大な致命的過ちがある:

一:「勁」は「力」よりもレベルと境界が高い運動形式である。

二:「力」を練り上げ、柔軟にすれば「勁」になる。

三:技能運動行為は強化訓練を経て、あれこれ考えない、いわゆる「心の欲するところに従う」自動化レベルにまで熟練すると「勁」になる。

「勁」と「力」の区別は、世間でいう概念上の優劣、正誤の違いではなく、自然か不自然かの弁別である。これは本質上、属性上の根本的区分であり、また唯一の弁別、世にいう「不二の法門」である。それが示すところは自然の唯一性である。

力を用いる運動は現在、現実に、今の人類が共有している運動モデルである。また現在、現実に、今の人類が備えている目下の現実条件下での唯一の運動方式である。この点は疑いの余地がない。

筆者は世界で最初の聡明な人たちを笑ってしまう、力を用いる運動の基本特性と基礎条件を発見したので、現代の運動であろうと伝統的運動であろうが、または西洋の運動であろうと東洋の運動であろうと、どの系統、どの門派であろうと、内家か外家を問わず、「力」から離れると皆それは「ありえない話」になってしまう。この人たちは現在、現実の運動現象を見ただけで、自然本有の良能運動を経験したことがない。力を用いる運動の特質である「力」を把握して大変な努力をし、大騒ぎするのは決して間違いではなく、確かに誤りではない。そのため人にどのようにリラックスし、どのように緊張し、どのようにしてリラックスを発力に換えるかを教える、これが力を用いる運動の基礎条件になる。力を用いる体系の基本原理原則は: 

一、元の力をいかに増強するか。

二、(伝導)組合せ行為をいかに至適化するか。

三、至適化した(伝導)組合せ行為をいかに強化するか。

この三つが力を用いる運動の三大原理原則であり基本的特性の内容である。

筆者はここに、武術体系の研究者、またそれを教える人たちに、現行の武術体系に向き合って再検討するように訴える:多様な表面的運動行為は別にして、運動の基本原理原則および基本訓練内容の特徴において、現代体育の、とりわけ競技スポーツの基本原理原則および基本訓練内容と本質上何が違うのか? 

自らを省み、自らを救うために、何も隠す必要はない、答えは決まっている、何も違わず、全く同じだ。

筆者はこの場を借りて大声をあげて世人に警告する。中国に固有の運動体系を唯一実証できたのは、王薌齋先生が先祖の遺産を継承し、提起した良能運動体系である。これを俗に「勁」という。ただ残念ながら、「勁」というこの運動体系は、その概念から訓練に至るまで、巷の人たちに曲解され、全く別物になっている。「勁」の本意とはかけ離れ、王薌齋先生に言わせれば、この病は「膏肓に入りて救いがたし」。

良能運動の特質特性の要点は「自然本有」にある。「学ばずして出来る」ことがその運動体系の指標であり、先天と後天を併せて備え、また原始において備えられた運動方式である。

ここで特に強調されるのは:

一、「勁」と「力」は互いに独立して存在する運動体系である。

二、「勁」と「力」には、優劣、正誤の対比関係はない。どちらも異なる条件の下で発生する異なった現象であり、どちらも唯一の正しい選択である。

三、「勁」と「力」には自然か不自然かの違いだけがあり、それは両者の間の本質上および属性上の根本的区分であり、また唯一の区分であり、これを俗に「不二の法門」という。

王薌齋先生は「勁」と「力」の関係を論じて、「轅を南に向け、車を北に走らす、風する牛馬も相及ばず」、つまりまったく一致せず相反する、と述べておられる。また重ねて、「反対に、力を用いるのは勁を用いる運動を妨げ、阻害する、少しでも力を用いればそれだけ拙くなる」と強調しておられる。「力を用いれば気滞り、気滞れば血流れず、形も崩れる」。「拙を捨て整うを求む」。したがって、「力を用いれば誤り」。

具体なれば誤り

「具体なれば誤り」と形意拳の教えにある「形が見えればできず」という指摘は相通じるものがある。     

その根源を究めるには、「虚」という字の本来の意味を知ることから始めてその真意を見出す必要がある。

「虚」という字には古くは二つの意味があった。

一、「虚」の世界。「虚」とは天地混沌、カオスの時代。「道」の道とすべきは常の道にあらず、名の名とすべきは常の名にあらずの老子「道徳経」の時代であり、この時代の原始人類は広大な世界の中の一つの生き物または種に過ぎなかった。その時代の原始人類は言語や文字を持たず、まして道理や境界を論じることはなかった。

これを深く見ると、これは現象からなる広大な世界であり、人間もまたその中の一つの自然現象、あるいは自然物に過ぎない。これは感知の世界であり、現象と現象の間には自由感応メカニズムが作用する関係性があり、それによって形成された相互感応し、融合一体化した世界である。この現象的世界の特徴の一つが「瞬息万変(しゅんそくばんべん)」であり、「瞬息万変」の本質は発生と消滅が不断に転換することである。古代の人々は発生前の状態を「虚」と称していた。「虚」の本質は未知、未発生、しかし必ず(何かが)発生することである。これを俗に「一切が可能」という。発生したらそれは「実」である。

このような「虚」の世界に直面して、人間は一体どのような状態で応じて存在していたのか?中華民族の祖先は精妙かつ鮮やかにこれを描写している:「虚を以って物に応じ、静を以って変を待ち、虚霊を黙守す」。人間だけがこのように生存しているのではなく、宇宙の一切すべてが皆このごとくで、「万物皆霊性を有す」。そこには重要なメッセージが伝えられている、「虚」こそが「霊性」発生の根元であり、その故にこれを「虚霊」と称し、「実」は「霊性」を生み出すことができない。これが古代から現代に至るまで「虚霊」と言われ、「実霊」とは言われない理由である。これこそが「具体でない」ことの正解の一つである。これは世間にみられる偽の道教、巷の術士がよく用いる「まやかしの学」、「ごまかしの学」では絶対にない。それは人を惑わし、迷わせるものである。

二、「虚」は真に立ち返るための前提条件である。

「虚を致すこと極む、静を守ること篤く、万物並び作り、吾以って其の復るを観る」。老子《道德経》のこの一段落は「格物致知」の基本原理であり運動の原則である。ここで「虚」の対象は既知、経験、知識などの人為的要素であり、これらの人為的要素を取り除いて初めて世界の本相と世界の本相を見ることができる。いわゆる、「吾以って其の復るを観る」であり、「人欲を去りて天理を存す」《陽明学》である。

自然に回帰するとき、あるいは自然現象を探求するとき、「人欲を去り」「虚を致すこと極む」。その時初めて、純粋自然本有の本相が現れ、自然法則の働きの過程あるいは働きの現象を感受できる。この過程で、わずかでも人為的要素が介入してはならない、道家はこれを「三界の外に跳出し、五行の中に在らず」と言う。人為的要因の介入を防いで、まさに「一念の差」を超える。「一念の差」はどこにあるか?この差は自然属性の不純にある。「感じて発す」と「思って(意念)発す」の両者の間には属性上の区別がある。前者は自然本来の「感じて発す」という純粋自然現象であり、後者は人為的意識(意念)の参加または制御の下で発生するトレーニングの要素がある応答方式であり、人が設計し、人が制御する不自然現象である。

注:ここでは自然か不自然かの問題を探求しているだけであり、優劣、正誤などの一般的評価には関わらない。

老子《道德経》に曰く:「知恵出でて大偽あり」。一切の不自然現象の根源は人間の知恵と技巧に端を発する、これは科学の進歩に反対しているわけではなく、自然の角度から出発して、純粋な自然領域とは何かを論じているだけである。

聖書によれば、アダムとイブは知恵の果実を食べたためにエデンの園(自然世界)から追い出された。

「格物致知」に最も近いのはフッサールの《現象学》の擱置(判断停止)である:      

既知、経験、知識

_________ ・剰余価値

 判断停止

韓氏意拳が明確に提起しているのは、我思うを脱却し、我感ずという自然感知領域に入ることである。これは「無分別」であり、ただ条件と現象が交替循環する世界である。これこそが「具体ならず」の正解その二である。

王薌齋先生:「長空に対して黙し、万慮を払い、吾浩然の気を養う」

具体か具体でないかの問題に関して、筆者はここで「具体ならず」の本質的内容について概略的分析を試みた。

本稿の意図するところは:

一、本を正し、源を清める。王薌齋先生の学術的価値を正確に位置づける。自然良能運動が社会の同好の士の注目するところになるようにする。この絶大な学理を、世間の偏見や誤解によって消失させてはならない。

二、乱を鎮め、正しきに返す。世間で、どのようにリラックスし、どのように緊張するか、どのようにしてリラックスと緊張を発力に転換するか教えている人たち、さらにはどのように意念を用いて行為を強化するかを教えている人たちに正に告げる、概念をすり替えてはならない、技能運動の理念と学習方法を自然良能運動の理念と学習プロセスに置き換えようとしてはならない、そんなことをしても技能運動さらには意念の作り出す運動の不自然な運動の本質を覆い隠すことはできない。王薌齋先生の学術資産を乱用し続けてはならない。

三、 拈華微笑 。筆者は確信している、社会は人間自身に関するこの最高の学を永遠に粗略にすることはあり得ない、必ずや全人類の関心を呼び起こし真剣に探求するところとなる。なぜならそれは、私たち人間が久しく忘れ去り、粗略にしてきた人間の本相さらには人間本有の運動だからである。

それは現在、現実社会の中でもはや不安定で、絶滅の危機に瀕した学になってしまった。あなたと私が、社会の見識ある人たちが勇気をもって踏み出し、共に努力して、人間の自然本相にかかわる、人類の健康と福祉の自然領域に見事に咲いた花を救わなければならない。

本稿は推敲を重ねたが、文責は私にある。(2020113日)


           翻訳 入江宏和