2010年1月6日水曜日

韓競辰師拳学論文

「韓氏意拳学術体系の根源」  韓競辰

韓氏意拳の学術体系は、中国伝統文化における、道学や陽明学に基づく学術の観点からその思想を導き出し、成立している。
学術体系の核となる原理は

「自然条件⇒自然の変化過程⇒自然産生的結果」

韓氏意拳は伝統武術における“勁”の本質に対し、全く新しい解釈をしており、併せて拳術を学習する過程の全てにおいて、言葉は簡潔にしてその意を全てに尽くしている。そして実際に使う事のできる独特の風格を持つ拳学、拳学体系である

韓氏意拳では次のような事柄について明らかにしている。
現代では人間の根本的な運動原理や訓練方法は、それが客観的には東洋のものであったり西洋のものであったり、または現代的であったり伝統的であったりするが、それらにはほとんど差異はない。ただ単に名称が異なっていたり、形式的な差異、つまり文化の表現形式が異なるだけで、本質的には全く差異がないと言えるだろう。
中国の伝統的な拳学や拳術の表現形式は、そのようなものとは根本的に異なり、そこには天と地ほどの差がある。ここには運動のメカニズムにおいての明らかな違いがある。
韓氏意拳は、教学原理において、古くからの教え「師者、解惑也(師は惑いを解くもの)」に従い、教学を行う中で「言伝(言葉により伝える)、身教(運動形式、感覚的教導)、心授(思想交流)」という伝統的な教授法を採用している。
それらによって韓氏意拳が学習者に求めるものは、全ての拳術理論や拳術の原則を各自が具体的に行う過程の中で体得し、自身においてそれを証明して行く事である。
そして韓氏意拳の最終的な答えは、「それぞれ一人一人の拳である」ということなのだ。
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韓氏意拳の命名  韓競辰

一般的に言えば、名称というのはただの記号である。
何かを指したり、区別するために用いられる。
故にその名をもって指し示したものが何か分かるのであれば、それで問題はないのである。

しかし社会で何事かを為したり、世に何かを広めようとするのであれば、名称というものはいい加減にはできないものであり、その名をもってそこに歴史的な使命感を与え、またその名をもって人の心の琴線に触れ、その名を人々に知ってもらう必要がある。

昔から「名不正則言不順(名が正しくなければ言も筋が立たない)」と言われている。まさに生存の原理を説いた優れた言葉である。しかし、何をもって名が正しくないと言えるのであろうか。

このような見地から、韓氏意拳とは何か?ということを次の様にはっきりと述べなければならないと思う。

問い:韓氏意拳とは何か?
答え:韓氏意拳とは拳術の形式や拳の道を通して、自分自身を知り、自分自身を認識し、自分自身を把握し、自然を感受する(自然に備わった本能を表現した拳術であり、自然を感受する事はそのような本能の表現の過程においてなされる他無い)ことを目的にしている。

無題
天昭昭日月明(天の日や月が明るく照らす)
人恍恍自性彰(人もまた自らの性質を明らかにしている)
茫茫然一片大地真干浄(広々とした大地も清められているというのに)
聡明様事無巨細真煩人(人は自ら聡明であるとしさまざまな事に心を悩ます)

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「根本法」と「具体法」 
韓競辰

 物事は、その事象を形成する要素によってそれぞれの違いがある。人間もまたその時々の状況、条件によって物事に対しての認識も行動も同じではなくなる。武術の形成と発展を研究してみると、それぞれの違いも現れてくる。
 
 その違いによって、我々は武術をそれぞれの「学派」、「流派」或いは「体系」として分けている。どの流派が優れていて、どの流派が劣っているかと判断しようとすれば、恐らくそれは非常に難しいことになるだろう。なぜならば、どの流派にもそれなりの道理があるからである。十年、百年、千年の時を経て、それぞれのシステム或いは合理性が形成されているわけである。どの流派が正しいかは本当にはっきり言うことはできない。

 
 
それでも、人は武術を修練しようとしたときにはやはりまず「流派」を選んで、それから修練を開始することが多い。それは主に「性格・体質」及び「主観的な認識」そしてその流派と出会う「機会」によって判断し選ぶのである。しかし武術の学習者はそのような要素によって流派を選んでしまうと、狭い理解、或いは一面的な理解に陥ってしまう可能性が高いものである。その理由は、我々が理解している「流派」、「体系」というものには実際には「大道理」と「小道理」が同時に存在しているからである。私は「大道理」を「根本法」といい、「小道理」を「具体法」という。
 
 「根本法」とは、どの流派でも守らなければならない法則である。例えば、武術では「速いほうが勝つこと」、「長いほうが短いほうを抑えること」などである。また、現代スポーツの中で強調されている「スピード」、「感覚」、「瞬発力」など、これらの概念はすべて「根本法」の範囲に属する。「具体法」とは、特定の目的、特定の状況、特定の人間に対しての特別な法則である。武術を修練するとき、同じ動作をしてもそれぞれの体質により練習の姿勢はそれぞれである。このようなことは「具体法」に属し、普遍性を持ってはいない。
 
 この道理を理解すれば、流派についての争論はもう必要がないだろう。「根本法」は武術を修練する基本であり、入門の基本として学習しなくてはならない。「具体法」は修練する人それぞれの結果として現れるものである。現実の武術教育の中で常に「具体法」を「根本法」として学生に教える傾向がだいぶ強くなっている。これは武術の真意が失われてしまった根本的な原因だろう。

 
中国の武術雑誌『武魂』(1997年109期)に掲載されたものです

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「時間+汗=功夫?」 韓競辰

 長い間、多くの武術を学ぶ人々は、「練習時間と練習回数」を武術のレベルの基準とし、そしてもっと時間をかければ、自分の武術の技術はさらに熟練し、上達すると考えているようだ。そのような考えから「時間
+汗=功夫」という一種の常識が生まれた。ここでいういわゆる常識というものは、現代的概念で表現すると「普及→分化→自動化」の過程に他ならなく、これは人類がある物事を認識するまでに経験する過程である。言い換えれば、ある目的に対しての理解が「よく分からない」、「よく分かった」、「ベテランになった」という過程である。実践から見ると、この「常識」は科学性を持っているようではある。しかし上述の常識によって武術を練習すれば必ず上達できるのだろうか。その答えは、「必ずしも・・・」。
 
 世の中にはそのような希望を持っている人は少なくないであろう。一つの目標を選んでから一生をかけて頑張ろうとする人もいる。けれども本当にその目標を達成できる人はそんなに多くは無いかもしれない。遠回りをしたが、武術の話に戻ると、多くの武術を学ぶ人々は、上述の「常識」によって寒い冬でも、厳しい夏場でも毎日一つ一つの動作を繰り返して練習し、考えずに出来るほどまでやっているが、実際の応用となると練習した動作を出すことが出来ない。あるいは予想した効果が全くでないということが多い。
 
 それはなぜだろうか。この「常識」が間違っていたのだろうか。そうではない、この「常識」そのものは間違ってはいない。しかしこの「常識」を武術練習の基準とすることは間違いだったのである。「常識」自体は一般論にほかならなく、人が具体的にどれだけ理解できるようになるかということを保障するようなものではない。極端に言うと、間違った練習を繰り返せば、間違った武術の達人になってしまうだろうということだ。この道理が分かれば、武術の練習をする際に上述の「常識」への考え方に気をつけなければならないことが分かるだろう。種は石の中に蒔くか土の中に蒔くかによって結果は全く違ってくるだろう。私は素晴らしい目標よりもまずは先に合理的な練習形式を選ぶことが一番重要だと考えている。
 
 最後に、武術に希望を持っている友人たちに一言申し上げたい。それは「慎重に」ということである。

 

中国の武術雑誌『武魂』(1997年108期)に掲載されたものです