2024年7月24日水曜日

伝統中国武術の実用的価値ー6(韓競辰新疆武術協会における講演録・11 07 2022)

 6 拳術空間認知


何度も強調しているように、数千年の歴史を有する中国民族が、運動の問題を探求するときに、空間の問題を探求しないことなどありえません。


板書空間認知


中国人は空間をどのように認識しているでしょうか? 


板書】点    面  体


中国民族は、単に空間の問題を探求しただけではなく、極小的な細部から探求を開始しました---つまり、「点」から空間の探求を開始したのです。ですから「袖里乾坤(袖の中に天地が隠れている)と言われます。宇宙は一粒のトウモロコシの中にある。そういう空間認識です。


宇宙は一粒のトウモロコシの中にあるという道家の理論は仏教の「袖里乾坤」に対応しています。宇宙全体が私の袖の中にある、これが私たちの宇宙に対する宗教的な理解です。


それでは拳術行為の中で、攻撃にしても、防御にしても、その行為はどのように成立するのでしょうか?必ず相手と接触しなければなりません。「放空招儿」(相手に触れない技)と呼ばれるものは空振りに終わります。拳術行為には接触点が必要です。中国民族はこの問題を最も細緻なポイントに集約しました、それが接触点です。


板書】接触点


この接触点の研究というのは、世間で言われる、この「点」、あの「点」で人を打つというのとは違います。攻撃にしろ、防御にしろ、非接触では作用が生じません。拳で空気を打っても効果はありません。速度にかかわらず打てば効果がありません。


もっと重要な第二の認識とは何でしょうか?それは現在我々は拳術行為を二点間で認識していることです。


板書認識


例えば、ここにA点B点があって、どうやってA点からB点を打つか?中国民族は問題をこのようにはとらえませんでした。つまり二点間の認知ではなく一点の認識なのです。父は「要接未接」(まさに触れようとしてまだ触れていない)時に注目するように教えてくれました。相手と「速さ」を競うのではなく積極的に接触するのです。先ほど述べたように、すべての行為は、接触がなければ空振りです。


すべての動作の作用は接触の瞬間に発生します。中国人はこの「接触」をどのように認知しているでしょうか?それは二点間ではなく「点」の認識です。これは伝統ではどのような概念でしょうか?それは皆さんがよくご存じの「寸勁」なのです。


板書寸勁


父の表現はもっと正確でした。寸勁とは父は「要接未接」(まさに触れようとしてまだ触れていない)時だと教えてくれました。それが伝統的な「接触点」の認識なのです。攻撃にしろ防御にしろ、接触していなければ何の作用もありません。攻撃も防御も接触の一点で作用が発生するのです。


父が言う「要接未接」、はA点からどうやってB点を打ち、B点からどうやってA点を打つかの概念ではありません。このような「寸勁」の捉え方では、実戦では誰もその動作の完了を待ってくれません。


本当の格闘の中で、このように手を出すことを、父は「死守」だと教えてくれました。これはまだ打たれるのを怖がっている状態です。役に立ちません。父は、迎え撃つしかない、と教えてくれました。相手がちょうどよい間を作ってくれたので、相手に向かって突進するだけです。


父はこれを「打たれる構え」(挨打的架子)と呼んでいました。私の経験では、擒拿をやっている人が、「さあ、掴まえてみて」と言いました。そこで私が捕まえると、彼は親指を反らせたり、手首を返したり、関節を回したりしました。そこで私は言いました、「あなたのやろうとしていることは複雑すぎます、さぁ私を捕まえてみて」。彼が手を伸ばしてきたので、パッと打ち払いました。そして「どうして手を離したのですか?」と聞くと彼は何も答えられませんでした。


本当の格闘の中で、こんな悠長な技をする時間がありますか?幼稚園のお遊戯じゃないんですよ。私は拳を実践している者です。あなたに掴まえられるようなら、拳をやっているとは言えません。相手が手を出してきたら反撃してぶっ飛ばします。


次に「線」についてお話しします。これは先ほど述べた「軌跡」の問題です。二点間の最短、最速は直線です。しかし、自然な認識において、軌跡の認知は曲線になります。軌跡は曲線運動なのです。


板書曲線


曲線と言えば、皆さんよくご存じの事件についてお話ししましょう。伝統武術のなかの「王八拳」は今や一つのネタになってしまいました。しかし、私の思いはちょっと違います。私は二十数年前に一つの結論に達しました、伝統武術は一撃にも堪えられない。だからそれがネタになって、醜いとか、恥ずかしいとかは気にしません。


殴られて焦ると自然とこういう姿になります。子供が殴られたときに頭を下げて腕を振り回して突進するのと同じです。これが「王八拳」です。これは人類にとって最も自然な本能的動作です。ですから「王八拳」を恥だと思う必要はありません。殴られて焦って「王八拳」で突進するのは、第一に、自己を守ろうとする自然な拳なのです。


第二に、技術面から見ると、ボクシングや散打をやっている人に対しては、それは「ストレートフック」だと説明します。フックを左右に打ってみてください、「王八拳」になりませんか?違いはどこにあるのでしょう?左右の軌跡になる点は同じです。では我々の伝統武術の問題はどこにあるのでしょうか?最適化されてないことが問題です。


これを最適化して、「左フック」、「右フック」として使います。守備でも拳を繰り出します。相手の拳に乗じて、振り回しながらカウンターを入れます。これは人類が最も得意な反撃です。


本当に打ち合うときは、「バン!」と一発で終わります。私はこの点に関心があって、あるボクサーの長所は何か、彼はどんなふうに動くか、細かく分析する必要があります。具体的な例があり、リングが目の前にあるのですから、考えないわけがありません。


我々伝統武術を学ぶ者は、あらゆる拳術行為を生かせてこそ、初めて素晴らしいと言えるでしょう。


しかし現状はそうではありません。コーチに頼んで、蹴り方、打ち方、そして「ストレートフック」も教えてもらいます。伝統武術には多くの技も、流派もあり、歴史も長いのに、どうしてコーチに教えてもらわなければならないのでしょう? 


中国武術は文化的プロパガンダで作られたブランドになってしまいました。現状はどうでしょう?ブランドを持ち出してもその価値はますます下がっています。


次に、「面」はどのように認識されるでしょうか?面は我々の身体構造を形成する一つの要素です。上下左右の運動で面が形成されます。私たちの行為は二点間で成立するのではなく、面となって行われるのです。


伝統武術は二人の間の速度の競争ではありません。伝統における行為は面であり、その構造は軌跡から生まれます。身体の前に面が形成されるので「打と顧」と言われます、そこに「防御」が成立するのです。


伝統武術はどうして「打」であると同時に「顧」(防御)だと言われるのでしょうか?「顧」は「面」にあります。二点間の速度競争ではなく、「面」全体が進むのです。王先生はこれを「摧枯拉朽」と称しておられます、枯草や朽木をなぎ倒すような様子なのです。


では「点」、「線」、「面」にさらに何を加えるべきでしょうか?これを埋めると「体」になります。中国人の「体」は空間なのです。祖先たちの「体」は「点」、「線」、「面」、「体」に由来するのですから、これは現在の空間概念です。「面」は人体構造が運動中に形成されます。それは最終的には「体」、つまり空間内の運動になります。


これでわかるように、先ほどのその場に立って「ヤー!」とやるような発力は「体」の運動に達していないのです。それでは「点」、「線」、「面」、「体」を古典にまでさかのぼってみると、どんな概念が提起されているでしょう。それは「八卦」なのです。


板書】八卦 (無極生太極 太極生兩儀 兩儀生四象 四象生八卦)


私たちは「無極生太極」と丸暗記していますが、これはいったいどういう意味でしょうか。最初は一点しかありませんが、点が移動すると二点が出現し「太極を生ず」。前後があって軌跡が生じ、これは線の行為です。線の行為が左右に移動すると「面」が発生します。


「太極生兩儀 兩儀生四象」というのは、まず前後が生じ、横に向かうと左右が発生します。それによって平面が出現し、線形であった動作が横切ると「面」になります。この面が上下に移動すると「八卦」になります。ですから「無極生太極 太極生兩儀 兩儀生四象 四象生八卦」と言われるのです。


「八卦」が形成されると、完全な動作になります。「上下、前後、左右、内外」を備えているから完全なのです。しかし、この「上下左右前後」の根源はどこにあるでしょうか?それは「点」から「線」、「線」から「面」、そこから完全な空間に達したのです。これが伝統的な「八卦」の概念です。


「八卦」は何に用いられるのでしょうか?「八卦」は古人が事物を認知する方法でした。我々はどうすれば完全な事物を認知できるでしょうか? 


前後、上下、左右、内外が「八卦」です。世間の怪しげな説に耳を傾けてはなりません。実際は、古人が我々に教えてくれた、完全な事物を認知する方法です。事物には必ず前後、上下、左右、内外があります。この8つの面からしか、完全に事物を理解することはできません。


私たちの中医学にもこの道理がありますね。「四診八綱」がそれです。{注釈:四診は望、問、聞、切、八綱は陰、陽、表、裏、寒、熱、虚、実}八綱とは何でしょう? それは8つの異なる方面から見て最終的解答を得ることです。これこそが中医学の思想です。現在、あちこちに八卦図が描かれていますが、それは本当の八卦ではありません。


中国人の伝統的空間認識は「点」から始まり、「線」、「面」、「体」と展開します。中国民族の同一現象に対する解釈を信じなければなりません。先人たちはこれを徹底的に研究したのです。それを粗略にしてはなりません。


ではどうして「空間」を認識する必要があるのでしょうか?先人たちはさらに進んだ理念を提起しました。


板書空間占有率


西洋では、「空間占有率」が高い人が勝つ確率が高いと言われています。球技を例にとれば、球を争ってつかむ前に、スペースを占有します。フットボールにしろ、バスケットボールにしろ、速さを競う前に空間を占有します。格闘競技においても、まず優勢な位置取りをします。


ボールを早くつかめると言うけれど、こうして近づかれると持っていても意味がない。これが空間占有率の問題です。


西洋の考え方は、空間占有率が高ければ、勝率が高いというものです。中国人はこの空間占有率の問題をどのように認識しているでしょうか? 


板書軌跡占有


「軌跡占有」とはどんな意味でしょうか?四角でも円でも、空間があれば「軌跡占有」です。私はこれを数学の概念を用いて「中心放射」と呼んでいます。ここに立って、一点から無数の線を引き出すことができます。


そこで我々はどのような行動をとるでしょうか?ここに一つの攻撃があると仮定してください、そうするとそれに対応する防御行為があります。攻撃を受けると対応する防御がある、それが現在社会の一般的な認識です。


ここに中心点があり、周囲からの距離が最短になります。どこから攻撃されても、私は真ん中にいて、どこへも最短距離で到達します。これが現代人の認識で、学校で先生が問題を出すと、我々が答えるのと似ています。これは応答式です。


板書応答式


つまりAを見たらBを用い、Bを見たらCを用いるのです。これはロシアのパブロフが提起した「条件反射」型の訓練方法です。ベルが鳴るとエサを食べ、笛が鳴ったらおしっこをする。この訓練方法はロシアでよく用いられ、豚に綱渡りをさせることさえできるのです。


技能運動も同様の原理で、常に最適化し、強化することがその本質です。その結果豚に綱渡りをさせることさえできるのです。正しくやったらキャンディをやり、まちがったら棒で殴る。そうして覚えこませるのが条件反射です。ベルを鳴らし、笛を吹いて動作を覚えさせることができるのです。


占い師の中には、小鳥にカードを引かせて客の運命を占うものがいます。小鳥はよく訓練されていて、どのカードを引くべきか分かっているのです。


このほかに、我々中国人は空間占有率についてどんな認識を持っているでしょうか?


板書辺縁


23:23 父は「万象」(万物を包み込む)と呼んでいました。伝統ではどういう意味でしょうか?それは我々の位置がどこにあるかの問題です。実用的な拳術でも、特攻的訓練でも、こういうものはありません。拳でもナイフでも辺縁羅は見られません。


辺縁羅の優越性はどこにあるのでしょうか?それは「一形一意」に到達できることです。


板書】一形一意


一形一意」でなければ常に不安です。上か来たらこう守る、下から来たらこう防ぐ。ところが共有空間があればどうでしょう。私はいつも空間の辺縁にいます。


行為が「一形一意」になれば変化に対応するために悩む必要はありません。ただ内側に向かって運動すればよいのです。


王向斉先師はこれを大冶烘炉 (自然は区別することなく、自然の法則に従って動き、世界のあらゆるものを変えていく)と表現されました。本当に実践的な訓練もそうなります。反撃は早くトリックのように見えます。私たちの祖先はこのような動作を発見していたのですが、我々はそれをばらばらの技にしてしまったのです。


多くの拳術では、ぱっと打ってあとは好き勝手に動きます。徹底的に研究したことがないので、西洋の知識の影響を受けてしまいます。口先では古典の拳を論じますが、実際には西洋人の尻を追いかけています。


一形一意」ができれば、自分の占有空間以外からの攻撃を心配する必要はありません。占有空間の外からの攻撃は意味がありません。


この空間を「空档」と呼ぶ人もあります。中国人はこれが罠だということを知っています。私は空間の辺縁を守っているので、「空档」に侵入するものがあれば、一発で仕留めます。


これが中国武術の認識です。この空間の外から打たれないか心配する必要はありません。「一形一意」であればよいのです。伝統武術の「大合」も実現できます。


大合」を知らなければ、悠長な反撃をすることになり、相手のストレートパンチを食らってしまいます。


大合」が解っていれば、ドアを開けて相手を迎え入れます。相手が入ってくればドアをバタンと閉じてそれで終わりです。これは「張牙舞爪」(凶暴にふるまう)とは違います。それでは動作の本質が失われます。「大合」が実際にどのように用いられるかをきちんと知っておく必要があります。


どうして冷静でいられるのかというと、はっきりと見極めてドアを開くからです。「さあ、来い!」、あれこれ選ぶ必要もない、そこは「空档」です。それでも打ってくるならば、地獄を見ることになります。


人間サンドバックになって地獄を見たくなければ「辺縁羅」を学ばなければなりません。どうしてすべての行為は辺縁から始まるのか。伝統武術は根本から理解する必要があります。