7 拳の性質と空間行為の基礎条件
伝統武術にはどうしてこんなに技が多く、流派が多いのでしょうか?それが成立する根拠を一言で言えば、使えるものは何でも使う、です。
【板書】無所不用其極
それは先人たちが拳の本質を決して忘れなかったからです。何度も言いますが、拳の本質とは相手を倒すことです。相手が悪ければ自分はもっと悪くなることです。武徳とは何でしょうか?徹底的に悪を排除し、相手を降参させ、武装解除することです。「我慢の限度を越えたら反撃する」、そんなことがどうしてできますか?
今、世界の闘争行為を見ると、まさに「無所不用其極」のゆえに、ルールのない争いになり、両者の間の距離がますます離れています。伝統武術で言う、拉開架勢になれば技を発揮する空間が広くなります。しかし、お互いが触れ合うような、假手の距離になれば、誰が一瞬のうちに反撃できるでしょうか?打ってきたら「バン!」一発で終わります。面白くないですね。
ゲームの規則が少なくなると両者の間の距離が遠くなるのはこういう道理です。中国武術で拉開架勢というのは、反応する余裕が生まれるからです。対面距離では反応の余裕はありません。もう「無所不用其極」の概念を展開する空間は得られません。
現在のレスリングはマットに寝転がってもみ合います。中国人はどうして地上での動作を排除して、レスリングという別の種目に吸収したのでしょうか。原始的には組み合うことと打つことは分かれていなかったのですが、後に分けられ、両者が地上でもみ合う動作をレスリングの範疇に入れたのです。
ではどうして中国人は「立って打ち合い、寝たら打たない」のでしょうか?第一にそれは中国文化の英雄主義です。相手が地上に倒れたらもう打たないのです。第二に、実戦において、地面に寝転がることは、もう死んでいることです。寝転がって動ける空間はごく一部です。相手は大きな空間を占有して、やりたい放題です。あなたの頭をボールのように蹴ることさえできます。
掴み技や、関節技などを練習している人がいます。実戦では役に立つでしょうか?相手がマウントを取って、あなたの首を絞めたり、打ってくるとき、反撃できるはずがありません。
マレーシアから来た「山王」と呼ばれるボクシングのチャンピオンに会ったことがあります。日本で寝技を習得してきたブラジル人と対したとき、この「山王」は床に倒されてロックを掛けられました。
ロックされた後どうなったか?中国人はみんな知っているように、負けたら尻尾をまいて帰るしかありません。もう二度と顔を出せません。競技においては一位だけがあり、第二位はありません。その時、「山王」は咬みついたので、相手は飛び上がりました。お互いに握手してそれで試合は終わりました。
これは実際にあったことです。そのブラジル人がどんなに利口かということではなく、現代体育文化の抜け穴を利用しただけです。彼は自分のテクニックを「ノーリミット」と呼んでいます。現実の試合では、一発で相手をKOできる人はほとんどいません。そこで山王は相手に打たせ、蹴らせてから相手に組み付き、中国の伝統伎でマット上を転げ回ったのです。
クリンチして相手を投げ倒したわけではありません。ただ地面に横たわったのです。横になれば好きなようにやれます。テクニックは使わず相手に抱き着いてマットに倒れこんだのです。相手を引きずり込んで倒せば勝ちです。
ブラジル人の言う「ノーリミット」が本当なら、倒れこんでもチャンスはありません。本当に「ノールール」なら、倒れることは死を意味します。中国人の英雄主義では「倒れた者は打たず」ですから、リングの上で殴り倒されたら、負けを認めなければなりません。
中国人は地面に寝転がってもみ合い、絡み合う技を好みません。そのブラジル人が勝てるのは「何でもあり」だからです。何でもありにすると我々の行動範囲は極めて広くなります。こうやったり、ああやったり、後ろに回ったり、地面に叩きつけたり、肩に担ぎあげたり、そうすればどこでも打てます。
股間を打つ人もいます、あれもこれも、何でも成立します。理不尽だと責めることはできません。根本的には、中国人の技撃に対する考え方も「何でもあり」だからです。考え方は人それぞれです。こうやって突いてもいいし、躱されたら、またこう突けばよいのです。
我々の行為はますます数が増え、拳のスタイルも多くなっています。覚えておいてください、いかなる行為もその成立理由を否定することはできません。そうでないと、祖先が使って相手を倒したその技をもう使えないという結果になってしまいます。したがって、行為が成立する理由を否定することはできません。
《拳撃百年》という本を読んだことがあります。拳闘の誕生から、現在までの発展の経緯を紹介した本です。誕生当初は、とにかく打ったり、殴ったりで、時間の概念がありませんでした。最後まで立っていた方が勝ちなのです。ある立ち合いは午後から夜中まで続いたそうです。中国のいわゆる「張飛と呂布」のように最後はどちらも立ち上がれません。一人がやっと立ち上がって相手を殴り倒し、相手はまた立ち上がって相手を殴り倒し、両者は倒れたままでした。
拳闘の歴史は長く大きな変化を遂げました。例えば、先ほど申し上げた王八拳も進化して、左フック、右フック、アッパーカットになりました。拳闘のルームも細分化しました。先人たちの「空間占有」の考え方も徐々に発生してきました。
ですから中国人は「森羅万象を包む」とよく言います。王向斉先師は「大冶洪炉無不陶鎔」(巨大な鉄の炉はあらゆる金属を熔かす)と言われました。つまり「いつでもかかってこい」という意味です。晩年の王先生の脚が衰えたとき、挑発して言われました。「さあ、かかってきなさい」。で、打ってかかった人は一撃で倒されました。お年を召しておられたので、追いかけたりはしないけど、挑発に乗って先生を打とうとした人は一撃でやられてしまったのです。
これを理解すればだれもが自分の行為を整理できるでしょう。そして拳がどうやったら本当に使えるかを知ることになるでしょう。
では、実戦においてどのように「空間を占有」するのでしょうか?「包羅式」が「中心式」より優れていることはわかっていますね。では具体的にはどう実践すればよいのでしょうか?
【板書】空間占有
基本的要点は3つです。
【板書】歩法 身法 手法
すべての拳術行為は、歩法 身法 手法を備えていなければなりません。「心意門」と「形意拳」ではより明確に体現されています。
【板書】钻 裹 践 为一拳
鑽、裹、踐を以って一拳となす。
ここで「鑽」とは手法のことです。「裹」は身法、「踐」は歩法です。この3つがあって初めて空間を占有できるのです。ではこの3つの基本条件の比率はどうでしょうか?百分率で示してみると:
【板書】手法 身法 歩法
10% 20% 70%
いわゆる「拳法」の占める割合は10%です。実戦において一番重要な条件は何でしょうか?それは「歩法」です。「身法」は20%、「手法」は10%にすぎません。
ところが、伝統武術の関心はほとんどが「拳」に向けられています。「身法」や「歩法」に対する関心が薄いのです。ああ打ってきたらこう打つといった研究ばかりで、「歩」や「身法」の研究は看過されています。
ではどうして私は「歩法」の比率が高いというのでしょうか?実際に戦うときには両者の間に距離があります。この距離の問題をどうやって解決するか?私たちは「空間を占有」したいのですから、まずその間合いに入らなければなりません。何がその問題を解決するか、それは「歩」に任せるしかありません。
同じ行為でも、見てください、先ずは「歩」、そして「身」最後に「拳」です。「拳」はこの行為を完成させる最後の段階です。本当の間合いとは、いわゆる二点間の距離ではありません。それが理解できないので、攻防を意識して、身体をこの空間の外において、手足で入ろうとするのです。
本来、中国人は「空間占有」を重視します。それは動作の問題ではなく、この空間に入らないと、なにも成立しないのです。王向斉先生は常にこういわれました「伸手即是触」(手を伸ばせば当たる)。戦闘においては距離が一番重要です、その空間に入るには「歩」しかありません。
先頭において、「歩」が間合いに入れば、身体は自然についてきて、「拳」も到達しています。打とうとするならば、まずここまで突入しなければなりません。そこで肩を少し動かすと、相手を打てます。さらに「歩」を進めると、相手を直撃できます。手はほとんど動かさず、そこに置いたままです。これが中国人の考え方です。
先ほどは百分率を用いてこの要点の重要性を説明しましたが、もう一つ皆さんがよくご存じの例をあげましょう「教拳不教歩,教歩打死老師傳」(拳を教えて歩は教えず、教えれば師匠は死ぬ)。これで、皆さんよくお判りでしょう。
【板書】太極拳
ここで私が知っている太極拳、すなわち父親から習った太極拳についてお話します。タイトルは忘れましたが太極拳に関する薄い本を読んだことがあります。かなり年配の老人が書いたものです。その中に一つの見方が提起されていました。皆さんご存じのように太極拳は「掤、捋、擠、按、採、挒、肘、靠」を重視しています。その方の意見では、この8つの技法の中で「擠」が一番重要だというのです。
【板書】擠
著者が言うには「擠」がなければ、他の7つの技法は全く成立しない。よく見てください。この私の技撃行為は平面的行為で、せいぜい自分の身を守るだけです。実際には、このように運用すると戦闘の問題を直接解決できます。この動作を太極拳では「攬」と呼んでいます。
この動作によって「起勢」と「進攻」が一挙に終わります。この過程にはすでに「掤、捋、擠、按」が内包されています。「擠」とは突撃のことです。どの行為も、侵攻性がなければ使えません。「按」も突撃性があって初めて成立します。
伝統武術においては、ただ立って発力しても意味がありません、必ずその「空間」内に進入しなければなりません。そうすれば実践性が高くなります。よく見てください。太極拳の「攬」は相手がそこにいるときに直接進入して行います。これこそが「攬」です。
一つには直接応用があり、もう一つは間接応用です。実践では2つの選択肢があります。直接か間接か、です。形意拳で鼍形拳と呼ばれているのはまさにこのような動作です。相手に向かってこのように仕掛けるだけです。
八卦掌の出方はまた違います。父は「怀抱婴儿手托天」(嬰児を抱いて手に天をのせる)と教えてくれました。動いたらもう発力があります。「大換掌」と呼ばれるのがそれです。動けば「換」の作用があるので、八卦掌では「大換掌」とか「双換掌」と呼ばれています。
この原理が分かればその行為が何と呼ばれているかは重要ではありません。伝統武術の中には似たような技がたくさんあります。道理が分かり、拳法の原理が認識されれば、その名前は重要ではなく、概念にすぎません。
「内家拳」ではこの「擠」は「摧」と呼ばれています。「摧枯拉朽」(枯草を砕き、朽ち木を引き倒す)がそれです。打つのではなく一気に発力します。高速でこの動作を行うと全く違ったものになります。
ですから、どんな拳を稽古するにしても、必ず3つの内容、身法、歩法、手法を備えていなければなりません。そして、歩法に重点を置くことが肝要です。
なぜなら、先ほどから歩法の重要性を強調しているように、歩こそが距離の問題を解決できるからです。形意拳では「歩要過人,頭要撞人」と教えられています。つまり、歩は相手を通り過ぎ、頭は相手に衝突するといことです。どこまで距離を詰めるか、それは相手に衝突するまで距離を詰めるのです。相手を追い越す歩で初めて距離が縮められるのです。
頭は、相手に衝突すべし、とはどういうことか?技撃においては2点間の距離ではなく、空間占有が問題です。両者の間に戦う空間があります。ここで、空間が大きければ大きいほど、変化が多く、変数が大きくなります。空間が小さいほど変数が小さくなります。この空間にいたら、猿みたいなまねになります。しかし、いったんこの空間に入ってしまえば、やるべきことは明らかです。王向斎先師は「伸手即是触」(手を伸ばせば当たる)と教えられました。
「何をやっても良い」が原則ならば、「ヤァー!」の一息ですべて終わりです。実践における両者の距離とは、共有空間の中の無数の「面」の距離であり、現代体育のような2点間の距離ではありません。中国人の空間認識は、それを占有することであり、多く占有するほどできることが多く、あなたの行為が成立する、ということです。
「空間占有」のメリットはどこにあるか?それは空間変化可能性が最小になることです。ここではいろいろな動作が可能ですが、ここまで詰めるとできる動作は少なくなります。目の前に迫ると、もう考える必要もありません。直接手を出せば終わり、思考の入る余地はありません。
さて、「空間占有」で何が得られるでしょうか?それは空間変化率を縮小します。この一点を掌握しなければ、伝統で言う「一形一意」には永遠に到達できません。何メートも離れたところに立てば、相手は蹴ってくるか、打ってくるか、何をするかわかりません。