2024年7月24日水曜日

伝統中国武術の実用的価値ー4(韓競辰新疆武術協会における講演録・11 07 2022)

 4 生命の認識


運動に関するもっと根本的な認識とは何でしょうか?それは古人の生命に対する認識です。古人は生命の認識をどのように表現していたか?完全な生命体とは何か?2つの重要な要素が提起されました、一つは「形、もう一つは「神」です。


【板書】生命認知  形神合一  天人合一


伝統武術の愛好者たちは皆この述語を熟知していると思います。ですから、正しいか間違っているかは別として、私の話を聞いてみてください。私はもともと医者であり、私の父母も医者でした。中医におけるこの概念は非常に深奥なので、ここでは論じないでおきます。


それでは古人は生命をどのように説明していたでしょうか?どうすれば完全で健全な人間とみなすことができるでしょうか?ここで注目すべきは人そのもの、つまり個体生命です。我々一人一人の身体です。


私たちの身体はどうしたら完全な人体とみなされるのでしょうか。「合」なれば完全です。「合」とは分けられないということです。ですから「合」になるためには二つの基本条件があります。一つは「形」、医学的に見れば人体です。部品はそろっていますか?手足が欠けていませんか?何もかけていなければ「形」は健全です。


「神」とは何でしょうか?この字を見たとたんに意念や意識活動を思い浮かべるのは間違いです。医学的に見れば「神」は機能です。「形」は人体、「神」は機能なのです。


【板書】機体、機能  


脚を伸ばしたり上げたりできる、手を伸ばしたり、掴んだりできる、頭を動かしたり腰を回したりできる、これが機能です。これらの機能は練習してできるようになったのですか?違いますね。技能運動というのは人体が本来備えている機能を強化しているだけです。


どんな機能をとってもそれは天から与えられたもので、練習して獲得したものではありません。聴力は練習して獲得したのですか、視力は練習して獲得したのですか?脚が動かせ、腰が回る、後天的に練習して獲得したものですか?違いますね。「練」というのは「人の欲」で意識的に強化しているだけなのです。


自然を超越するとか、自然に挑戦するとはどういう意味でしょうか?それは天賦の自然条件に加えて、さらに自分の能力を高め、伸ばし、高めることです。我々人類はそういうことをやっているのです。



さて、「形」と「神」はどんな関係にあるのでしょうか?どうして「合一」でなければならないのでしょうか?伝統において、「神」は古代人の全世界、自然万物に対する認識を示しています。すべてのものが「形」と「神」の基本要素を備えています。ではこの2つの要素はどのように区別されるのでしょうか?


「形」は「有形存在」を表し、「神」は言うまでもなく「無形存在」を表しています。古代の概念では「形」と「神」は区別できました。しかし、「神」という文字に出会ったとき、それを幻想的なおとぎ話と思ってはなりません。 


古代の概念では「神」は「無形存在」です。人類の技能はまさにそういうものです。あなたの跳躍力を取り出して見せることができますか?手足は見せることができます。しかし跳躍力といった抽象的な概念を取り出して見せることはできません。


ではなぜそれらが合一だと言えるのでしょうか?古人は「有形」と「無形」、すなわち「形」と「神」について答えを持っていました。第一の結論は「有形無神」、第二は「形無所主」です。


【板書】有形無神  形無所主


これはどういう意味でしょうか?耳があっても聞こえない場合、耳はただの飾りではないでしょうか?腕はあるけれども、曲げ伸ばしの機能がないとき、この腕は使い物にならないでしょう。その逆はどうでしょうか?


【板書】有神無形  神無所居


「神はあるけど形がない」、「神には居場所がない」。つまり、人体の機能はどこにあるのか、それは「形」の中にしかない。「形」がなければ、中国でよく言われるように、世の中に霊魂がさまよい、どこにでも孤独な幽霊がいることになります。さまよう魂は「死体」を見つけ出してよみがえるしかありません。機能を「死体」に伝えることでしか「形」は得られません。


これが古人の「形」と「神」の関係性についての解釈です。いわゆる「死体を借りて魂を返す」(借屍還魂)とはそういう意味です。これで「合」が「不可分」だと強調している意味がお分かりだと思います。「有形無神」ではないし「有神無形」も成立しないのです。一方には主体がなく、他方には居場所がないのです。


「形」と「神」がそろって初めて完全になるのです。これが古代の人たちが提唱した「形神合一」で、それが生命そのものに対する認識だったのです。ところで古人の具体的な本意はどこにあったのでしょうか?社会に出現する特定の現象が伝統概念に関連付けられるとき、我々はしばしば訳が分からなくなります。神様のような神秘的存在が我々を支配しているかのように思われがちです。そんなことはありません。


古人が提唱した「神」という概念は「無形存在」に属します。反対に言えば、「無形存在」を「神」に帰納することができます。また伝統文化において、人々の認識にある傾向が発生しています。「有形存在」よりも「無形存在」に多く注目するという傾向があるのです。


「有形」のものは眼があれば見えるし、耳があれば聞こえます。しかし「無形」のものはどうやってその存在を証明できるでしょうか?古代文明において、道家がその答えを出しました。「道」とは何か?「道」は見ることもできないし、掴むこともできません。「道」とは感じられるものなのです。

ですから、中国人にとって「道」とは「感」なのです。仏教はこれをどのように教えているでしょうか?「如人飲水,冷暖自知」、この水はどのくらい熱いでしょうか?古代には温度計はなく、測定もできません。ただ「冷暖自知」。熱いと飲めません。口に含めても、喉が受け付けません。わぁ、熱い! 


ですから「如人飲水,冷暖自知」とは結局「感」のことです。仏教にしろ道家にしろ、すべての宗教の最も神秘的な部分は感覚によって確認されるのです。


それは眼で見るものではないのです。眼で遠近を判断するのではないのです。感じればどうなるでしょう。距離の面から見てみましょう。ほら、私は何もしていません。ここまで来るとどうですか?感じは変わりませんか? 


どうしてあなたの身体に反応が発生したのでしょう?それが「感」です。私が歩いてきただけで、彼は思わず後ずさりしましたね。これが「感」による反応です。私は口で「さぁ、殴るぞ」などと言っていません。それによる反応ではないのです。


このような概念で世界観が構成されているのです。ですからごく自然に中国文化は徹底して「無」を探求するのです。


【板書】無


伝統文化や宗教における「無」とは何もない空っぽだ、という意味ではありません。それは「無形存在」を指しているのです。ですから、伝統武術を学ぶ者は、伝統文化から離れることはできないのです。


【板書】無形存在


このように研究、探求すると分かるのですが、伝統文化は大学に行って学ぶ必要はありません。それから離れることはないので自然にそれに言及しています。それから離れたら、どこに向かえばよいのかわからぬまま、盲目的に稽古することになります。中国人は「有」よりも「無」に対してはるかに深く関心を持っているのです。


12:26次に「天人合一」についてお話ししましょう。


【板書】天人合一



「天人合一」という概念は誰もが知っていますが、いま私たちは誤解に陥っています。「人と自然」というテレビの特集番組がありますね。自然とは何でしょうか?山、湖、草原、森林でしょうか?金銭的余裕があれば、我々は家族を乗せた車を駆って大自然に抱かれに行きます。 ここで誤解が生じます。私たちの頭の中で自然はすでに概念化しているのです。私たちの自然に対する認識は概念化したのです。


外国で教えたときに何人かの外国人に尋ねました。「自然とは何ですか?」彼らの答えは先ほど述べたのと同じく、草原、森林、山や湖でした。確かにそれらはすべて美しい場所です。そこで私はすぐ彼らに尋ねました、「今はどこにいるのですか?自然の中ですか?」彼らの答えは、「No!私たちは今部屋の中にいます。」


まさしくこのようにして我々は自然を概念化したのです。我々の生命と自然の関係性は古人が魚と水の関係で説明した通り不可分なのです。部屋の中にいるからと言って自然との関係がなくなったわけではありません。


関係が無くなったのなら、あなたの呼吸は何ですか?あなたの生命全体の働きは自然から離れられますか?飲んだり食べたり、よく眠れなかったり、眠れなかった、気分が悪いから癇癪を起したり、自然から離れられませんよね。


伝統的な意味では「天」は自然であり、「合一」とは不可分の意味であり、「天人合一」とは「天」と「人」は不可分だということです。すなわち、私たちは自然から離れたことがないのです。


人類が住んでいるこの家も、自然の視点から見れば、それは人類が作った一つの洞穴にすぎません。それをきれいにして、堅固な木の洞穴を作って住んでいるのだとも言えます。それだけのことです。それは洞穴の形式が変わっただけのことです。山の洞穴であれ、木の洞穴であれ、安全で快適であればそれでよいのです。


ですから「天人合一」とは不可分、天と人は一度も分離したことがないという意味です。それでは古人の概念では、人と天の関係はどこにあるのでしょうか?それは「感応」という関係性にあります。


【板書】感応


これは現代教育で教えられる「応答」とは別物です。先ほど強調したように「道」とは「感」です。「仏」とはなにか?やはり「感」です。我々と自然の関係性は何か?それは「感応」です。


寒ければ震え、鳥肌が立ちます。暑ければ服を脱ぎます、それが「天人合一」なのです。王向斉先生が意拳を提唱されて以来、社会全体が伝統武術の意義に注目し始めました。そして多くの人が「意念」を強調しています。しかしこれは大間違いなのです。


【板書】意念


多くの人は自分の考えを「意念」だと思っています。あぁゆっくりやってみよう、さあ、早く動こう。しかしこれは意ではありません。やはり根本から掘り起こして問題を解決しなければなりません。ですから「意」について特に詳しく論じます。


今の私たちは、「意」について考えるとき、それを大脳の意識活動に帰納しています。ですから意念、精神,意志はすべて意識活動に集約されます。古人の「意」はそうではありません。古人の答えは「意自形生」です。


【板書】古意  意自形生


「意」というのは能動的な大脳意識活動ではありません。ああ考えたりこう考えたりする意識活動ではありません。古人は「意」は「形」より生ず、と説明しています。とても簡単なことです。お腹がグルグルと鳴って、あぁお腹がすいた。これは自然本能であって、私がお腹が減ったと「考えた」からお腹が減るのではありません。現代人のこのような思い込みは間違いです。


お腹がすいたと思う、食べすぎたと思う。これは我々の人為的、主観的意識活動です。古代の「意」は「意は形より生ず」、生きている中でもっとも単純な本能の反応です。グルグルとお腹が鳴ったらどうしますか。何かを食べる、それだけのことです。


お腹がすいた、さてよく考えて、今日はどこで食べようか?我々の生活は豊かになったので、選択の悩みがあります。何を食べようか?食べたいものが多すぎます。王向斉先生は「意」を「感覚重視」と教えられましたが、現代人は「思考重視」になっています。


【板書】重意感


「重意感」とは何でしょう。それは「意感」です。考えて行うのではありません。「意」と「感」の関係から発生する変化、現象です。もっとゆっくりと考えたり、もっと早くと考えたりするわけではなく、伝統武術では何よりも先ず「私は思う」を捨て去らなければなりません。


「私は思う」を捨て去ってはじめて「重意感」の層位に入ることができます。想念ではありません。あぁ私は今水面に浮かんでいる、きれいだなぁ。今虎を押さえている。それは意念にすぎません。


一千年前にインドで淘汰されたヨガがゴミの中の掘り出し物のように取り上げられ、しかも金儲けの手段になっています。これこそ「重意念」(思考重視)ではないでしょうか?脚を組んで、瞑想して、周りには樹木があり、渓流があり、梢では鳥がさえずっている。風が頬をなでる。あぁ、何と美しい!


一千年前のインドでヨガはすでに淘汰されたのです。仏教ですらインドでは居場所を見つけられなかった。現在の仏教の隆盛は中国人がその価値を見出し重視した結果なのです。中国人が仏教を東南アジアに、そして全世界に広めたのです。


これが歴史の真実なのに、今我々は他人のごみを拾い上げています。中国には素晴らしいものがあります。生命に関して祖先が残してくれたものに取り組まなければ、ただの「想像」の世界に入り込みます。瞑想は精神のアヘンにすぎません。現実生活の問題を解決できません。


瞑想から覚め、眼を開けてみれば、食事を準備しなければなりません。市場に行って買い物しなければなりません。現実は少しも変わりません。「心に思うだけで事が成る」ならば家にいるだけでよいでしょう。お金を使う必要もありません。自分の家で、そこに座って、美しいものを何でも思い浮かべることができます。それで好いのではないでしょうか?


さらにお金を払ってヨガを習う?少なくとも私はそんなお金は使いません。「天人合一」の一番大事なポイントは何だったでしょうか?それは生存することです。単純化し、概念化したいわゆる「人と自然」は間違いです。


この自然環境の中で生きていけるか?中国人が言う「順天応時」とは外部環境に適応できるか、ということです。ですから適者生存が「天人合一」の根本です。五行の生剋のように何が何を生じ、何が何を剋すというようなゲームをするわけではありません。


古人はくだらないことで騒ぐためにこんな観点を持ち出したわけではありません。生存こそが根本的問題なのです。どのように自然に順応するか、それは適者生存です。現代人は、家庭を持ち、仕事をし、いろんなことに適応しなければならないので生活はますます面倒になっています。この悩みは解消できるでしょうか?



この悩みは生存と関係があるので、どうやっても解消できません。私が医者だった時、ある患者の奥様が亡くなられました。日に日に体調が悪くなり、よく眠れず、食欲もありませんでした。体力が低下し、次々と病気にかかりました。多くの名医を探し、薬を飲みましたが、結局治りませんでした。


その後出会ったある医者はどうしたでしょうか?その名医はこう言いました、「再婚しなさい、すべてうまくいきますよ」。これこそ、現実生活の中の「天人合一」です。古人がゲームをしたとしたら、それは「天人照応論」というゲームです。


天は丸いから人間の頭も丸いのだ、地面は凸凹だから足にも凹凸があるのだ。天に日月があるから人は二つの眼を持つのだ。古代にも天人照応を信じる人がいて一種の「ゲーム」を楽しむ人がありました。しかしここでも「天人合一」、生命から離れられません。人間は生まれたときから、常に生存の問題に直面しています。


適応すれば生存し続け、適応できなければ淘汰される。これが「天人合一」の答えです。目新しい解釈に耳を傾けないでください。何の意味もありません。「形神合一」にしろ「天人合一」にしろ、結局は生存の問題です。生存を離れて「形神合一」や「天人合一」を探求しても何の意味もありません。


我々の学ぶ「拳」も同じ道理です。人と人の戦いを離れて、いま私たちは「拳」を研究しているだなんて、笑わせないでください。


さて、運動そのものについて、古人はそれを総論としてどのように説明していますか?どのような条件に注目すべきでしょうか?——「手、眼、身、法、歩」。


【板書】手眼身法歩


これもまた「合一」を目指しています。つまり、どの拳術行為にもこれらの要素が含まれている必要があります。手、眼、身、法、歩。もっと専門的で、奥深い表現をする人もあります:形、神、意、気、力。

 

【板書】形神意気力


この表現は前者よりも具体的で深いものです。どんな行為をするときでも、これらは必須条件になります。「形」がなければ成り立たず、「神」がないのも成立せず、どれ一つが欠けてもダメなのです。これこそが「合一」の概念なのです。古人が技撃行為に必要だと考えた要素なのです。