2024年7月24日水曜日

伝統中国武術の実用的価値ー3(韓競辰新疆武術協会における講演録・11 07 2022)

我々がはっきり認識しなければならないのは拳の対象の本質です。ですから、積もり積もった歴史上の拘束を紐解いて根本を掘り起こし、新しい道に踏み出しました。それは中国伝統武術の特徴を備えた拳の道で、ここにおられる皆さんの重い責任です。

つぎに、技能運動の観点から、現代体育の観点から具体的にお話ししましょう。「勁」については、将来機会があれば、その概念についてお話しします。「勁」とはなにか、どのようにして追及するのか、そして何が得られるかについて検討しましょう。


それでは、技能運動の観点から検討するときに、どこから手を付ければよいでしょうか?基本的な概念、研究の方向は何でしょうか? 


「拳」が一つの現象である以上、それは中国特有なものではなく、中国北方の人だけが有するものではありません。全人類の生活、環境、社会のどこにでも「拳」という現象は存在します。ですから、どの拳術を研究しても、それは国家、民族、地域を問わず同じ現象です。



なぜ「同じ現象」だということを強調するのかと言えば、中華民族は西洋から「拳闘」が伝わる前に、すでに「拳」や「格闘」を研究し、答えを持っていたからです。拳闘が伝来して初めて、西洋人の後を追って「空間認識」や「三大要素」を知ったわけではありません。


中国には何千年もの「拳を用いる」歴史があります、「拳」をあらゆる面から研究し、その答えを持っていることは間違いありません。ただ私たちはその答えを無視してしまい、中医学が西洋医学に制圧されたのと同じことになってしまったのです。


先ほどから検討しているのは技能運動の概念です。拳術とか拳闘というのは同一の現象で、国家、民族、地域による区別はありません。先人たちはこの現象に関して全面的な考察、研究をしたに違いありません。


この点を抑えた上で「発掘」という次の作業に移ることができます。本当に根っこから掘り起こさなければ根本的な解決はありません。伝統の中で、ヒトの運動どころか、全世界の運動について、古人はどこからその描写を始めたでしょうか?これには中国民族の伝統的な概念、「自然宇宙観」が関係しています。


我々が現在持っているすべての文化思想は「自然宇宙観」に内包されています。先人たちは自然の運行であれ、生命の運行であれ、すべての運行の法則を一つに帰納させています、すなわち「一動、一静、之を道と為す」です。


現代に生活する我々はこの「動」と「静」の概念を現」、代化してしまいますが、これでは古人の本意からは外れてしまいます。「動」については「動く」ということでたいして問題になりませんが、伝統武術の「静」の解釈は分かれています。


例えば「入静」と言いう概念を提起した人がいます。身体をリラックスさせ、頭の中を空にする、捨てること、放下です。容器を空にしなければ水は入らないということです。さらには「調心」、「調身」、「調息」などの教えがあって実に興味深い。しかしこれらはせいぜい「静」へのプロセスにすぎず、我々が追及している「静」でもなく、古人が提起した「静」でもありません。


古人が提起した「静」は稳定すなわち安定です「動」はすなわち運行、変化です。単に動いていることではなく、変化することです。生命の観点から見ると「変に応じる」、現代風に言えば「対応能力」のことです。


「動」とはやみくもに動くことではない。競技スポーツの観点から言えばこれは対応能力のことであり、それが競技能力なのです。これは単純な「動くか動かないか」の概念ではありません。そんな単純な遊びでは、ボクシングのリングに上がることさえできないでしょう。


「動」というのは全世界の運行の法則であり、ダイナミックな概念なので固定的に捉えてはなりません。「静」は安定性を示し、この二つが自然法則には不可欠なのです。自然の中のすべて、私たちが目にしたり感じたりすることの一切が「動」というダイナミックな側面と、「静」という安定性を備えています。どちらも欠かすことはできません。

 

自然界の万物が備えているこの「動」と「静」を古人はどのように形容したでしょうか。


虎踞龍盘」、のようにしゃがみ、龍のようにとぐろを巻くと形容しています。伝統武術でも「龍虎二気」と表現されています。これは「動」と「静」のことです。「龍気」とは変化に応じることです。これは相手の動きをよく見て対応を考えるということではありません。Aを見たらBを用い、Bを見たらCを用いるというのでは、いつも後れを取り、必ずやられてしまいます。「龍気」というのは対応能力のことです。


さて、なぜ今我々中国人は迷走しているのでしょうか?それは「龍の末裔」であることばかりが強調されているからです。そして中国民族の根本である「虎気」が無視されているからです。「虎気」とはゆるぎないこと、安定していることです。安定しているので打ち破れず、攻略できないのです。何かをやろうとしたとき、それを阻止できないことです。それこそが「虎龍二気」と呼ばれる中国人の精神なのです。


これこそが古人の事物、運動、生命に対する理解の仕方です。風水の面から見ても、「虎龍二気」が備わっているのは宝庫です。「龍気」があれば水が豊かで植物が繁茂し、食物が生産され、小動物がいるので我々も生きられます。ゴビ砂漠に行って宮殿を立てるなんてまねをしますか?きっと耐えられず、三日で帰ってくることでしょう。ゴビ砂漠を観光で訪ねるのは良いけれど、そこで暮らすことはできません。


「虎気」はどうでしょう、それは安定です。山頂に家を建てたらどうなるでしょう、強い風や日光にさらされ数日も持たないでしょう。麓に建てたらどうでしょう、洪水が出たら破壊されてしまいます。どうして中腹に家を耐えるかと言えば、そこは「虎気」を備えた風水の宝庫だからです。安定して傷つけられない堅固な場所です。「龍気」は活力があり、生存可能な場所です。


こういうわけで、伝統技芸を語るときに、それは伝統文化と切り離せない、とよく言われます。口先で言うのではなく、本当に伝統文化と切り離せないのです。ですから「天不変道亦不変」(天は変わらず、道もまた変わらず)と言われるのです。この「一静一動」こそが宇宙運行の法則なのです。


あなたが人であれ、石ころであれ、樹木であれ、なにかの種であれ、この法則に従います。ですから中国の伝統文化には「虎踞龍盘」、「龍虎二気」の概念があり、形意拳、心意さらには王向斉先生の教えにも「龍虎二気」があります。


この「龍虎二気」は世間で言われるような神秘的なものではなく、実は極めてシンプルで、「龍」は対応力、「虎」は堅固で安定していることです。あるものがこの二つの性質を備えているときは存在し続けることができ、片方が欠けると長続きしません。


では拳術は伝統文化とどのような関係があるでしょうか?「剛柔」ということが言われます。これが剛、これが柔、そして内外兼修、剛柔併せ持つ、と言われますが、両者は本来不可分なのです。


ここまで論じてくると、皆さんがよくご存じの伝統文化概念に行きつきます、それは「合一」です。中国古代の文化は「合一」思想と切り離せません。なぜならすべての探求は究極的には「一」に帰るからです。


古代の「合一」は現代人の考える組合せとは違います。脚を鍛えて、腰を鍛えて、ぱっと拳を出す!これは間違いです。今では組合せはバージョンアップして「整合」と言われています。以前の拳と脚の組合せからレベルアップして、拳と脚を整合させるのだと教えられています。滑稽で笑止千万ですね。


伝統的な「合一」とは不可分という意味です。「剛」だけ備えれば枯れ木のようになってしまいます。「柔」だけ備えていても、堅牢ではなく、風が吹けば吹き飛んでしまいます。


ですから、合一というとき、「合」の意味に注意しなければなりません。それは不可分だということです。では次に古典の「陰陽」の概念を検討しましょう。


黄帝内経』「素問」第六篇には「阴阳者,数之可十,推之可百;数之可千,推之可万;万之大,不可数,然其要一也」と記されています。{天地における陰陽の範囲は非常に広く、具体的に当てはめると、十から百、百から千、千から万と、数え上げればきりがないほど推論されるが、大原則は変わらず、陰陽の統一である。}


陰陽離合論によれば、「十まで数えれば、百まで数えられ、万も数えられる」。しかしどこまで数えても、「それは一つである」に帰着します。分けるのは肉を切り刻むのと同じことです。肉のミンチになってしまいます。


これらの古代の述語は中国伝統文化と切り離せないはずです。我々はいつも「剛柔兼備」、「五行合一」とか言っています、しかし「合一」は組合せではありません。現在の「(大形拳)」と呼ばれるものも各種の技のパッチワークです。 いわゆる「三十六計」や「七十二招法」も組み合わせです。


大形のこういう解釈は間違いです。組合せではないのです。あちらから良い動作を取り出し、こちらから別の良い動作を組み合わせても使えません。拾い上げたものはどれも技能行為にすぎません。

太極拳では、ずっと「柔」だったのに突然「剛」に変わったりします。自分の発力はなかなか良い感じです。使えそうな気がします。しかしこのときは力をつかっているだけで、その力も競技運動の力には全く及びません。発力して、クンフーがあるように感じるかもしれませんが競技運動の強度には太刀打ちできません。


魯迅の作品「祝福」の祥林嫂のようになってはいけません。あれやこれやについてつらつら恨みを言うだけではだめです。いろいろ恨む理由はあるでしょうが根本原因は自分です。周易に曰く:天行健なり。君子はもって自ら彊(つと)めて息(や)まず」。


習近平主席は、鉄を打つには身体が頑健でなければならない、と述べられました。自分自身の問題を解決しないと他のせいにするだけになってしまいます。永遠に問題は解決しません。ですから問題を掘り下げて、徹底的に反省しなければなりません。先ほど述べた、「陰陽合一」、「剛柔合一」、「内外兼修」を忘れてはなりません。


どんな伝統文化でも、「合一」といいうのは不可分という意味です。こうやって「陰掌」を練り、ああやって「陽掌」を練る、なんていうのは笑い話です。


これが陰、これが陽。それなら本当に手を出すときに、陰または陽を選ぶ時間はありますか?何もわからないうちに地面にたたきつけられますよ。


それでは現代体育のある概念、体系について伝統武術はどのように解釈しているでしょうか? 


まず、中国民族は身体運動をどのように認識していたでしょうか?解剖学のなかった時代、三角筋、上腕二頭筋、上腕三頭筋などの概念はありませんでした。


中国人は非常に単純に「筋骨皮」しか見ていません。「」はここでは論じません。のこるのは「筋骨」の訓練です。骨を除いた部分が筋です。したがって中国古代の運動行為の描写は「筋骨」が主体です。生命の観点からは「筋骨皮」になります。


我々中国人はこの問題をどのように見ているでしょうか? 


伝統的には、ヒトの運動行為を「三節、四梢、五行、六合」に要約しています。三節とは節、中節、根節で、上肢と下肢の区別はありません。全身も、頭部、体幹、足に分かれるので三節と呼ばれます。


四稍」とは両手両足の先端のことです。「五行」とは何でしょう、この動作は水に属し、あの動作は火に属する、というのではありません。それは我々の運動の5つの要素です。すなわち単双、順逆、進退、転換です。まずこれについて説明します。


五行は運動のなかでは単双、順逆、進退、転換です。あれ、一つ足りない。よく忘れてしまいます。一般社会ではこの拳は水に属し、これは木、これは土に属すと言われますが、それは正しい解釈ではありません。


本当に手を出すときに、拳の属性を考える余裕はありません。深い概念を考慮して、水が来たら土で防ぐ、土が見えたら木で防ぐ・・・とても間に合いません。拳の属性を考えて採用していたら、もうやられています。五行は運動の重要な要素なのです。


そうだ、遠近です。先ほど言い忘れましたが、単双、順逆、進退、転換、遠近が運動の基本的要素です。したがって、世間で言われているこの拳は木に属し、あの拳は水に属するというような解釈は間違いです。


では「六合」とは何でしょうか?先ほど、組合せがバージョンアップして整合になったと言いましたね。これは間違いです。「合」を見たら、これは不可分という意味です。だから「帰一」、「九九帰一」、「万法帰一」と言われるのです。したがって、「合」は最終的に「一」に帰着するという意味です。

 

では、運動において「六合」はどのように表現されるでしょうか?韓氏意拳ではこれを現代中国語で「同歩」と表現しています。「六合」の目的は何でしょうか? それはどの行為にも全身が参加し、協調し、統一して機能することです。


したがって、古人は「合」を目的として「内三合」や「外三合」の概念を提起したのです。一つは行為の面から、他方では意識の面から「合」の概念を提起したのです。


私の答えは「同歩」です。いろんな動作をするときに同時に行えますか?先に足で蹴ってから拳を出す、これではだめです。それは同時に発生するのです。伝達ではありません。また「勁」をそこからここに伝達するのでもありません。「同歩」は同時発生のことです。


どのような行為でも同じことです。「ヤー!」一瞬で終わりです。「合」は現代語では「同歩」に帰します。同歩であれば「合か否か」は問題になりません。「整合しているか否か」も重要ではありません。発力についても、同歩ができれば、最大限の力になります。


ですからそれは現代人が考える力はどのように伝達されるかの問題ではありません。力を遠くから伝達するのは面倒です。同歩同期ができれば、発力も「ヤー!」の一瞬でうまくできます。


中国伝統文化の「合」という概念は「用于一切処」、どこにでも用いられるという普遍的価値があります。「同歩同期」で表現できれば「力」は最良のものになり、「勁」も必ず最良のものになります。


中国人が提起した概念、「用于一切処」、どこにでも用いられる、は素晴らしいものです。


武術における「合」と技能運動の差はどこにあるでしょうか?技能運動は具体的行為です。ある動作には足を蹴る必要がある。この動作は足の蹴りと組み合さなければならない、面倒ですね。


技能運動には一つの制約があります。アスリートはまず一つの具体的行為をして、また別の行為に転換する必要があります。伝統武術ではそういうことはありません。「ヤー!」この一動にすべてがあります。一つの具体的動作を完了してから次のプロセスに入るでは遅すぎます。転換は遅すぎるのです。


これには伝統的な価値観が関係しているので簡単にお話ししましょう。なぜ伝統的な価値観を掘り起こして考察するのが大事なのか、それは私たちが納得できないことがあるからです。私たちの先祖が発明したことがなぜ機能しないのか?なぜ悔しい思いをするのか?先人たちは一撃で相手を打ち負かしてきたのに。


もっとも運が悪かったのはロシアのあの巨人レスラーです。何度も中国人によって打ち破られました。ロシアのサーカス団が中国にやってきたとき、そのレスラーはリングに上がったとたんに中国の武人たちに打ち破られました。


中国伝統文化における拳術の理解は、行為の中に基礎的条件が完備していれば、その時生まれる行為は拳の行為である、というものです。


ここで「四稍」を強調しておきます。「四稍」とは、我々の行為の起点です。「四稍」は心意門、形意拳で提起されました。


四稍」という概念は「力」と「勁」という行為の起点に関係があります。「力」の場合、その「力点」がどこにあるかが問われます。「力点」がなければ力の源がありません。「力」には「根」が必要なのです。


ところが「力」と異なり「勁」には根がありません。動作の起点は「根」ではなく「先端」なのです。「出手似放箭」(手を出すのは矢を放つに似たり)といわれ、身体は一本の矢になって、「矢尻」に従って前進するのです。後ろから押すのではないので「四稍に」と言われます。足を蹴って、肩、肘、手に伝達するのではありません。


この観点からは、伝統武術と技能運動は同じではありません。しかし、伝統武術でも技能(または技巧)は研究するので混乱が生じます。武術を論じる場合、「力」と「勁」は避けて通れません。


ここでは具体的に拳術で運用する際の「四稍」の意義を論じましょう。まず「」(末端から始まる)ということです。次に「中節は従い」、「根節は追う」のです。これは足から伝達するということとは違います。


では「四稍」から発せられた力はどこに行きつくのでしょうか?それは運動の起点です。後足を蹴って伝達される力ではなく「節」から発せられる力です。拳術のすべての行為は「節」から発力するのです。


ここで注意するのは「力」は押し出されるのではなく、「節」から引き出されるのです。全身が引きさされるのです。これは「伝導」を重視する技能運動とは全く異なります。


それでは「中節は従う」とは何でしょうか?それは我々の身体構造が決定するのです。手が出たときに、身体はそれに従います。手が出て、腕が残っていることはあり得ません。だから「中節は従う」のです。


「根節は追う」とはどういう意味でしょう。足底の運動は手の「節」に追いつかなければなりません。伝達するのではなく追いかけるのです。「パッ!」と追いつくので「手を出すのは矢を放つようだ」と言われます。運動中の矢において、「力」は後から推すのではなく、前に引っ張るのです。


これこそが伝統で言われる「出手似放箭」(手を出すのは矢を放つに似たり)です。 速く!もっと速く!それは矢を放つではありません。動きの起点が問題なのです。ですから伝統的な拳の描写ではよく「四稍」が提起されるのです。


先ほども述べたように、中国人は自分たちの行為の発生の問題を研究しました。どういう行為が最良なのでしょうか?「同歩」または「合」の条件を満足するのが最良の拳です。ここでもう一つの概念についてお話しします。