2024年7月24日水曜日

伝統中国武術の実用的価値ー1(韓競辰新疆武術協会における講演録・11 07 2022)

1 拳術の誕生


今日は孫会長に講義の席を設けていただき感謝いたします。しかし、勇気を奮って戦うとか、腕比べをするとか、そういうテーマについて話すつもりはありません。そうではなくて、伝統武術において我々が直面している現状を解決し、どのようにして自分たちの道を見つけ出すか、これがこの講座の最も重要な目的なのです。


それでは、どうして拳術の実用的価値観をテーマとしたのかを説明します。私が強く感じているのは、父の世代から私たちに至るまでの過程で、最も悲しいことは、我々が稽古しているすべての拳術が実践に直面したとき、ひとたまりもないということです。いったい何が悪かったのか?私たちの頑張りが足りないのか、理解が足りのないのか、配慮が足りないのか、集中力がないのか?実際はそのどれでもありません。私がずっと深刻にとらえているのは、まずこの問題を解決することです、すなわちいったい何が悪かったのか?今、私たちは皆、伝統武術がゆがんでしまったことに気づいています。しかし、どうしてゆがんでしまったのでしょうか?それは社会の変化が原因だという言う人もあります。兵器が登場したからだ、などという人もあります。


しかし、私はそうは見ていません。一つには、歴史的に見て、伝統武術はこの国にあって何千年もの間、拳と脚を用いてきました。ですから歴史的に見て、伝統武術は役に立たない、という言説は成立しません。一心に稽古すればいつか無敵になる拳など存在しません。


しかし、現状を見ると、我々は道を外れてしまったことを認めざるを得ません。この点について、幻想を抱いていてはならない。拳の認識について世俗的な概念の影響を受けてしまったのです。例えば、この拳を一心に稽古すればいつか「天下無敵」の拳になれると信じて、生涯をかけてそれを追及したりします。


そこで、拳が好きでこの道を究めたいと思う若い人たちに伝えておきたいのですが、一心に稽古すればいつか天下無敵になれる拳など存在しないということです。これは非常に重要なポイントです。


この点を理解するために、まず我々はどこで道を踏み外したのか考察しましょう。それは我々が「具体」的な問題を抱えているわけではありません、そうではなくて、拳そのものの認識に問題が発生したのです。そのためには中国拳法誕生の根源を知らなければなりません。



第一に、拳はどのようにして発生したのでしょう。人類史の原始的段階においては拳という「現象」だけがありました。その時には「なになに拳」というような概念はありませんでした。拳はただ現象として存在していたのです。


縄張り争い、食物や異性の争奪のために動物の間に争い、格闘が発生しました、これは現象であり、一種の生存現象として存在していました。


毛沢東主席は「鷹は空を悠々と飛び、魚は浅瀬に跳ね、万物が霜天の下で自由を競う」と詠われました。これは「競い合い」を意味しています。


したがって、まず「争い」が根源的であることを知らなければなりません。自然から見ればそれは一つの現象、生存ための現象としての存在であり、動物同士の争いは、それがたとえ同種の間の争いであっても、それは生存のための一つの現象にすぎません。


したがって第一のテーマは、先ほどお話しした原始的な拳の概念です。実はこれこそが後代の我々が汲々として追及している「自然本来の運動」なのです。一般社会ではよく「本能運動」とか「良能運動」とか言われますが、私が今提起しているのは何でしょう、大事なことです、それは「本有運動」です。すなわち、人類の原始段階においてはすべてが天賦のものでした。先ほど述べたように、それはただ現象として存在し、天から我々に与えられたものでした。


先ほど、「鷹は空を飛び、魚は浅瀬に跳ねる」を引用しましたが、翼のあるものは飛ぶことができ、嘴のあるものはついばみ、歯のあるものは咬みつく、そういうことです。つまりそれは自然本有の運動であり、先天のものです。この点は明確にしておかなければなりません、それはただ拳の現象として存在するのです。


では、拳術はどのようにして発生したのか?社会ではよく伝統武術誕生の起源について、「天との闘い」、「地との闘い」、あるいは「毒蛇や猛獣との闘い」から拳が生まれたなどと言われています。


私はこういう説を信じていません。なぜかというと、まずもって武術の発生は我々人間社会の必要性だと知っておく必要があります。その必要性はいつ発生したのか、拳術はいつ誕生したのか、それは人類が効果的だと思える行為を意識して実践したときに発生したのです。


トラを殴るための拳など存在しません。トラと戦うためには槍、罠、足枷があり、素手でトラと戦うことはありません。したがって拳術を修練して「天と戦い」、「地と戦い」、「トラを倒す」必要はありません、そのような話をするならば、うそになります。


つまり、拳術の誕生は、人類社会の進化の結果としての社会的必要性、つまり結託して他人の物を奪おうとしたのです。他人の縄張りを奪うとき、どうしますか?相手は譲ってくれますか?相手を殺してしまえば、縄張りはあなたのものです。ここでわかるように、拳術の対象は同類なのです。人間同士の闘争の一つの形なのです。この「概念」をあいまいにしたり、宇宙観のように歌い上げたりしてはなりません。天でも地でもなく人との争いなのです。拳の本質は人との争いにある、この点はハッキリしておかなければなりません。拳術でトラを倒すとか、蛇を捕まえるとかはありません。天と戦う、地と戦う、毒蛇や猛獣を倒す、ご冗談でしょう。拳術の発生についてははっきり覚えておく必要があります。


第一に、拳術の対象はなんであるか、それは同類であり、人間同士の闘争であり、そこに発生する必要性です。意識的に修練して、どの動作により勁があるか、どう打てば勁があるのか、こう打つのか、ああ打つのか、どう打てば効果があるのか、というようなものなのです。


ここにはどのような状況が反映されているのか、その奥の深い層には何があるのか?拳術の特徴とは何か、その本質が問われます。ここで、拳術の特性とは何でしょうか?



拳術の本質は闘争です。それでは、私はずっと伝統武術を追及してきたのに、どうして「悲しみ」という言葉を用いたのでしょうか?それは私の経験によるものです。海外でも教学活動をしてきたのですが、私の講習会に参加したある学生が質問したのです。「先生の教えは、私が学んだマスターたちの教学となぜ違うのですか?」、私は問い返しました、「どこが違うのか?」、その学生が答えるに、「どのマスターも先ず武徳を強調されていました」。


私は「武徳とは何ですか?」と尋ねました。その学生は、「武徳とは軽はずみに手を出さないこと、耐えがたきを耐えてこそ忍耐であり、道場にはよく「忍」と大書してありました。それなのに先生の講義ではなぜ武徳や忍耐を説かれないのですか?」と言いました。


私は彼の質問にどう答えたでしょうか? 私はこう答えました、「米国では、ウェストポイント陸軍士官学校の誰もが配布された「聖書」を持っていますよね。だから、左頬を殴られたら、右頬を差し出しますよね?」、彼は慌てて答えました、「Oh, no, no ,no..」私は言いました、「OK,それで良いんだ!」


ですから、拳の特性を語るときは、拳の本質が闘争であることを忘れてはなりません。社会における拳の役割は何でしょう?それは悪を排除することです。邪悪と戦って勝つことです。ほかに何の役割がありますか?私に言わせれば、武徳とは悪を排除することです。


私の経験を話します。拳を教え始めた最初の日、食事を済ませた後、講習会場に向かう道で、私はずっと唱えていました。地蔵菩薩の言葉、「我地獄に入らずして、誰ぞ地獄に入る」です。これこそが私の拳に対する認識です。死ぬ覚悟がなければこの仕事はできないということです。


ここまでで、拳の対象、拳の本質が分かりました。拳とは悪を除くものであり、徹底的に排除して相手を屈服させる、それでこそ意義があり、ここに理屈を述べる余地はありません。これは現在の国家間の争いと同じです。航空機や軍艦は航続距離を伸ばし、ますます遠くまで爆撃しています。私たちの発言権はどこに行ったのでしょう?道理を説いても無駄です。現代社会では「悪」が多発しています。悪人相手に道理を説いても、殴り倒されるだけです。


ですから、拳の発生についてはっきりさせなければならないのは、それが社会の必要性だということです。拳の対象は同類であり、その本質は悪を除くことにあります。武徳とは何か、それは悪を徹底的に排除すること、それこそが武徳です、これが私の認識です。


ではなぜ私は拳の根源を知らなければならないと言うのでしょうか。拳とはいったい何なのか。私たちは一生「拳」を追及しているのですから、それを認識していないとか、明確でないとかはあり得ません。盲目的に追及するなどあってはならない。ところが社会ではこういう現象が見られます:長年拳術を稽古してきた人が、不良をいさめようとして、逆に殴られてしまう、なんてことはどうして起きるのでしょうか?それは不良がもっと「悪い」からです、その人が稽古してきた拳術に「武徳」の要素があって、それが自分の手足を縛るのです。不良があなたを殺そうとするとき、不良相手に道理を説く、武徳を説く、それでは問題があるのはあなたのほうです。


ですから根まで掘り起こし、整理する必要があります。根本まで掘り起こさずに、動作の改良だけを追及してもダメです。こうすれば力が大きくなる、こうすれば力は小さくなる、こうすればもっと利く、などなど、たいして意味はありません。とりわけ我々のように武術に従事する者にとって、このような改良はたいして意味がありません。我々は事を根源まで突き詰めて、どこに問題が発生したか明らかにしなければなりません。それは根本的な問題か、それとも枝葉の問題か?枝葉末節の問題解決を図るならば、根源的な改革にはたどり着けません。


では、引き続き拳の誕生についてみていきます。拳は社会進化の産物なのです。あるいは進化のバロメータとも言えます。先ほど述べたように、人類社会が進歩すると、どんどん要求がまし、結託してほかの人のものを奪ったり、なわばりを奪ったりする必要が生じます。こういった闘争によって相手を征服する必要があるのです。 だから拳は進化の産物です、これが第一点。拳術の発生の源は社会の必要性、進化の産物、あるいは進化の象徴と言えます。


第二に、拳は社会的分類の角度から見ると、自己独立性を有する専門的分業体系です。それはもっぱら「悪を除く」職種であり、行為であると言えます。ここで注意してください、拳は適当に発生したのではなく、社会前提の進歩の象徴になっているのです。したがって、拳が誕生したとき、その格闘術は本当に一つの独立した科学になったのです。撲殺のための科学です。それは道理を説く科学ではなく、撲殺の科学です。この点はハッキリさせておかなければなりません。


この科学において、すべての理論はどのように撲殺するかを中心に展開されてきました。「撲殺」、この二文字を離れては、どんな美辞麗句を並べても意味はありません。偉い学者である銭穆先生が言われるように、「具体的事象を離れては、何を述べても意味はない」のです。先生の言われる通りです。具体的事象を離れて立派な道理を述べても何の役にも立ちません。「口先だけで、実践しない」行為は避けなければなりません。


そのことは経験して身に染みています。とりわけ、私たちのところへ伝統武術を学びに来た人たちがそうでした。彼らは先輩たちの生活習慣を受け継いでいました。夜も明けきらぬうちに公園にやってきて、広い場所を探して自分で鍛錬し、それから仲間たちとたむろして煙草を一服し、この拳、あの拳の話をし、誰が多くの拳を知っているとか、誰の拳はレベルが高いとか、誰の先輩には輝かしい実戦歴があるとか、こういった話を始めるわけです。話し疲れたころにやっと真を求める人が出てきて言うのです:「こんな話は全部役に立たない、相手を倒してこそ拳だ」。「そう、そうだ、その通りだ!」といって皆家に帰るわけです。で、次の日もまたその続きです。


こういうプロセスで人を育てることができますか、人を育てるどころか自分自身も何もできるようにならないでしょう。これは生命の浪費ではないでしょうか? 作り話ではありません、とりわけ我々のように老年期に入った人間は、みんな集まっては一服吸い、空論をもてあそび、それから各自家に帰るわけです。最後に話をまとめる人が出てきて、「おぉ、相手を倒せるのが優れた拳だ」と言うのです。みんな家に帰って、次の日またやってきて、同じことを繰り返すのです。だから実質的に時間は浪費され、具体的なことは何もしないわけです。


要するに、拳が誕生して、我々人類社会の一つの独立した専門的学問となり、一つの職種、一つの体系となった。この点はしっかり記憶しなければならない。拳術の誕生は歌にあるような、「天と戦う」、「地と戦う」とかそういったものではない。拳術の発生は社会の要求、社会の進歩を表している。


剣術が発生したその時、同時に何が起きたでしょうか?中国伝統武術においては一つの大事件が起きたのです。すなわち、拳術が発生したその時から、我々はすでに原始的な闘争からどんどん離れはじめたのです。自然本有の世界ではなく、人がコントロールし、人が設計した技能世界へと向かい始めたのです。これが一つの重要な分岐点になったのです。


したがってこれは、中国伝統武術においては歴史上の大事件なのですが、伝統武術における大事件なのであって、現代体育や、西洋の体育にはこういう大事件は存在しません。それらは進化するものであり、当然技能化の方向に進みます。先ほど述べたように、技能化は社会の進歩の象徴なのです。


西洋の体育の歴史にはこういった事件は発生していません。先ほど強調したように、これは中国伝統武術における大事件なのです。我々伝統武術に携わる者にとって、自然本有運動、あるいは自然本能運動、自然良能運動は最高の目標であり、あこがれの的なのです。


ではどうしてこれを大事件と呼ぶのか、何がそんなに重大なのか? 先ほど述べたように、拳の発生は一つの分岐点なのです、「拳術」と自然本有の「拳」がたもとを分かち、それぞれ別の道を歩み始めたのです。我々はますます技能化する「進歩の道」を歩み始めたのです。


まさにその故に、古人は数千年前にこの問題に気づき、一つの概念を提起しました:返璞(素朴な本来の姿に帰る)したがって中国伝統武術には片時も心を離れぬ境涯があります。いつも心の中にあるのは「返璞」、本来の姿に戻ること、なのです。


 時には、明らかに技能を学び、技術的進歩を追及しているにも関わらず、内心では、ひたすら本来に帰りたいと思っていることがあります。それこそが、伝統的武術を学ぶ人たちの心の奥底にある矛盾なのです。だからこそ、根底から掘り返して、いったいどこから問題が発生したかを明らかにしなければならないと強調しているのです。我々が心の内でたゆまず追及している境涯と、我々が毎日受け入れ、さらには現実に行っていることとは、「長柄は南、轍は北」つまり全く正反対なのです。


では次に、なぜこのような矛盾が存在するかを説明します。伝統には「二兎を追う」問題が存在します。これを簡単な図で説明しましょう。紙を持ってきてください。


さて、この0からAを「原始段階」とします。先ほど述べた我々が一貫して求めている「自然良能運動」、「本能的運動」はどこにあるでしょうか、ここにあるのです。いま、強調しているのは「本有」という二文字です。「本有」が強調しているのは「先天性」です、つまり後から人が作り出したものではなく、「自然本有」のものだということです。


このA点が表しているのは、先ほど述べた拳術が発生したその瞬間です。なぜそれが分岐点であることを強調しなければならないのかと言えば、その時から我々は社会全体の進化段階に入ったからです。運動の分野についていえば、我々は「技能運動体系」に入ったのです。


技能運動体系とはなんでしょうか? 先ほど述べた拳術の誕生の時から、我々は「人が支配し」し、「人が設計する」段階に向かい始めました。ですから、技能運動体系とは、技術的な改良、身体能力の強化を指しています。ここでちょっと考えてみましょう。先ほど私たちは心の中で一心に追及しているのは、自然本能、自然本有だと言いましたが、現実には何をしているでしょうか?具体的には何をしているでしょうか?私たちは相も変わらず改良する技能、強化する技能の道を歩んで、技能運動体系に入り込んでいるのです。精を出して励むといっても、技能的な工夫なのです。


これは間違いです。「返璞」(素朴な本来に帰る)は誰でも知っているし、とりわけ伝統武術を学ぶ人はみんな「返璞」と口にします。 しかし「」 (自然のまま)がさしている対象が何かを理解している人は少ない。これは、先ほど明らかにしたように、人類の原始段階における一種の生存行為を指しています。他人の物を食べたい、他の人に食べられたくない。 他の人が襲ってきたら、そいつをやっつける。それは生き残るための行為です。したがって「拳」は一つの現象として存在するのです。それこそが我々が心に念じ続けている「本能運動」、「良能運動」なのです。



この段階では、我々現代人が言うような「拳」という具体的な概念は存在せず、それはただの生存行為でした。ですから、再度強調するのですが根源から掘り起こす必要があります、そうしてこそ初めて、我々が何に直面しているか、どこから間違ったのかが明確になります。この状況は現代社会で中医学と西洋医学が直面している現状と少し似ています。


中医学は不当な扱いを受けている、という人がいます。何によって不当に扱われているのか?―――――中医学の基礎理論が西洋医学によって破壊されたというのです。土台が破壊されたら、確かにその他の行為も委縮してしまいます。ですから、根本からか解決を図らなければ、中医学に未来はありません。


したがって、習近平主席が提唱される「国学」の意義はここにあると思います。国家全体に問題があるとき、例えば教育の面で問題があるときは、必ず根本に問題が発生しているのです。ですから国学が提唱されているのです。国学を提唱するとは、根源から掘り起こすということです。どこから問題が発生したか明確にすること、それこそが最も重要なことです。
訳注:「国学」中国の伝統文化・思想を学ぶこと。