2021年3月2日火曜日

「[根本法]と[具体法]」(韓競辰拳学論文 ) 

 「[根本法]と[具体法]」 韓競辰  

物事は、その事象を形成する要素によってそれぞれの違いがある。人間もまたその時々の状況、条件によって物事に対しての認識も行動も同じではなくなる。武術の形成と発展を研究してみると、それぞれの違いも現れてくる。    その違いによって、我々は武術をそれぞれの「学派」、「流派」或いは「体系」として分けている。どの流派が優れていて、どの流派が劣っているかと判断しようとすれば、恐らくそれは非常に難しいことになるだろう。なぜならば、どの流派にもそれなりの道理があるからである。十年、百年、千年の時を経て、それぞれのシステム或いは合理性が形成されているわけである。どの流派が正しいかは本当にはっきり言うことはできない。    それでも、人は武術を修練しようとしたときにはやはりまず「流派」を選んで、それから修練を開始することが多い。それは主に「性格・体質」及び「主観的な認識」そしてその流派と出会う「機会」によって判断し選ぶのである。しかし武術の学習者はそのような要素によって流派を選んでしまうと、狭い理解、或いは一面的な理解に陥ってしまう可能性が高いものである。その理由は、我々が理解している「流派」、「体系」というものには実際には「大道理」と「小道理」が同時に存在しているからである。私は「大道理」を「根本法」といい、「小道理」を「具体法」という。    「根本法」とは、どの流派でも守らなければならない法則である。例えば、武術では「速いほうが勝つこと」、「長いほうが短いほうを抑えること」などである。また、現代スポーツの中で強調されている「スピード」、「感覚」、「瞬発力」など、これらの概念はすべて「根本法」の範囲に属する。「具体法」とは、特定の目的、特定の状況、特定の人間に対しての特別な法則である。武術を修練するとき、同じ動作をしてもそれぞれの体質により練習の姿勢はそれぞれである。このようなことは「具体法」に属し、普遍性を持ってはいない。    この道理を理解すれば、流派についての争論はもう必要がないだろう。「根本法」は武術を修練する基本であり、入門の基本として学習しなくてはならない。「具体法」は修練する人それぞれの結果として現れるものである。現実の武術教育の中で常に「具体法」を「根本法」として学生に教える傾向がだいぶ強くなっている。これは武術の真意が失われてしまった根本的な原因だろう。   中国の武術雑誌『武魂』(1997年109期)に掲載されたものです